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言葉の不思議

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言葉の不思議言葉の不思議 寺田寅彦 一 「鉄塔」第一号所載木村房吉(きむらふさきち)氏の「ほとけ」の中に、自分が先年「思想」に書いた言語の統計的研究方法(万華鏡(まんげきょう)所載)に関する論文のことが引き合いに出ていたので、これを機縁にして思いついた事を少し書いてみる。 「わらふ」と laugh についてもいろいろなおもしろい事実がある。laugh は (AS(*).)hlehhan から出たことになっているらしいが、この最初の,がとれて英語やド?ツ語になり、その,が「は」になり、それから「わ」になったと仮定するとどうやら日本語の...
言葉の不思議
言葉の不思議 寺田寅彦 一 「鉄塔」第一号所載木村房吉(きむらふさきち)氏の「ほとけ」の中に、自分が先年「思想」に書いた言語の統計的研究方法(万華鏡(まんげきょう)所載)に関する論文のことが引き合いに出ていたので、これを機縁にして思いついた事を少し書いてみる。 「わらふ」と laugh についてもいろいろなおもしろい事実がある。laugh は (AS(*).)hlehhan から出たことになっているらしいが、この最初の,がとれて英語やド?ツ語になり、その,が「は」になり、それから「わ」になったと仮定するとどうやら日本語の「笑ふ」になりそうである。ギリシ?の gelao も,が gh になり、それから,がとれて、「は」「わ」と変わればやはり日本語になるからおもしろい。(L.)rideo, (Fr.)rire は少しちがうが「ら」行であるだけはたしかである。「げらげら笑ふ」「へらへら笑ふ」というから g+l や h+l のような組み合わせは全く擬音的かもしれない。マレ?の glak も同様である。馬の笑うのは ilai でこれは日本に近い。 「あざ笑ふ」の「あさ」は「あさみ笑ふ」の「あさ」かと思うがこれは (Skt.)?has に通じる。一人称単数現在なら hasami だからよく似ている。hsita は笑うべき事で「はしたない」に通じる。「はしゃぐ」が笑い騒ぐ事で、「あさましい」も場合によると「笑ひ事」であるのもおもしろい。 セミテ?ックの方面でも (Ar.)basama は「微笑する」で「あさむ」「あさましい」と似ている。しかし「笑ふ」の dahika はむしろ「たはけ」に似ている。(Ar.)fariha は「喜ぶ」で「わらふ」に似ている。 「あさましい」はまた (Skt.)vismayas で「驚く」ほうにも通じるが、それよりも元の smi, smaya で微笑にもなる。 (Skt.)garh は非難するほうだが軽蔑(けいべつ)して笑うほうにもなりうるのである。これも g+r である。そう言えば「愚弄(ぐろう)」もやはり g+r だから妙である。 「べらぼう」も引き合いに出たが、これについて手近なものは (Skt.)prabh また parama でいずれも「べらぼう」の意がなくはない。しかしまた、「強い」ほうの意味の bala から出た balavat だって似ていなくはない。「珍しい」「前例のない」ほうの aprpya, apurva でも、やはり日本式ローマ字で書くと p+r+b(m) の部類にはいる。これらはサンスクリトとしてはきわめて明白に、それぞれ全く異なる根幹から生じたものであるのに、音のほうではどこか共通なものがあり、同時に意味のほうにも共通なものがあるから全く不思議な事実である。 英語の brave や bravo も「べらぼう」の従兄弟(いとこ)であるが、これはたぶん (L.)barbarus と関係があるという説がある。そうとすればギリシ?の barbaros とも共通に、外国人を軽蔑(けいべつ)していうときの名であったらしい。しかし「勇敢」では少しぐあいが悪い。また一方で Barbarossa が「赤ひげ」であるのも不思議である。 (Ar.)gharib, ghurab「異常」は喉音(こうおん)の,をとると「わらふ」にも似てるし、,を,に変えると「べらぼう」のほうに近づく。すると結局「わらふ」と「べらぼう」も従兄弟だか再従兄弟(またいとこ)だかわからなくなるところに興味がある。ついでに (Skt.)ullasit が「うれしい」で (L.)jocus が「茶化す」に通じるのもおもしろい。 barbarus で思いだすのは「野蛮」と (Skt.)yavana である。後者は、ギリシ?人(Ionian)であったのが後には一般外国人、あるいは回教徒の意に用いられ、ちょうどギリシ?人の barbaros に相当するものになっているからおもしろい。東夷(とうい)南蛮の類であり、毛唐人(けとうじん)の仲間である。この「ヤナ」が「野蛮」に通じまた「野暮(やぼ)な」に通ずるところに妙味がないとは言われない。 またこの「毛唐」がギリシ?の「海の化けもの」ktos に通じ、「けだもの」、「気疎(けうと)い」にも縁がなくはない。 話は変わるが二三日前若い人たちと夕食をくったとき「スキ焼き」の語原だと言って某新聞に載っていた記事が話題にのぼった。維新前牛肉など食うのは禁物であるからこっそり畑へ出てたき火をする。そうして肉片を鋤(すき)の鉄板上に載せたのを火上にかざし、じわじわ焼いて食ったというのである。こういうあんまりうま過ぎるのはたいていうそに決まっていると言って皆で笑った。そのときの一説に「すき」は steak だろうというのがあった。日本人は子音の重なるのは不得意だから st が,になることは可能である。漆喰(しっくい)が stucco と兄弟だとすると、この説にも一顧の価値があるかもしれない。ついでに (Skt.)jval は「燃える」である。「じわりじわり」に通じる。 なすの「しぎ焼き」の「しぎ」にもいろいろこじつけがあるが、「しき」と変えてみると、結局「すき」と同じでないかという疑いが起こる。 steak は??スランデ?ックの steik と親類らしいが「ひたきのおきな」の「ひたき」を「したき」となまると似て来るからおもしろい。「焚(た)」くは (Skt.)dah に通ずるがこのほうはよほどもっともらしい。(Ice.)steik は steka と親類で英語の stick すなわちステッキと関係があり、串(くし)に刺して火にあぶる「串焼き」であったらしい。このステッキがド?ツの stechen につながるとすると今度は「突く」「つつく」が steik に近づいて来るし、また後者と「鋤(す)く」ともおのずからいくぶんの縁故を生じて来るのである。 こんな物ずきな比較は現在の言語学の領域とは没交渉な仕事である。しかし上述のいろいろな不思議な事実はやはり不思議な事実であってその事実は科学的説明を要求する。どれもこれもことごとく偶然の現象だとして片付ける前にともかくも何かしら合理的な方法のふるいにかけて吟味しなければならない。しかし従来のように言語の進化をただ一次元的、線的のもののように考えるあまりに単純な基礎仮定から出発した言語学ではこの問題は説明される見込みはない。たとえば自分がかつて提議したような統計的方法でも、少なくも一つの試みとして試みなければならないと思う。上記の諸例はそういう方法を試みるであろう場合に必要な非常に多量な材料の中の二三の例として数えられるべきものであろうと思う。 もし許さるるならば、時々こういう材料の断片を当誌の余白を借りて後日のために記録しておきたいと思う。 (昭和七年十二月、鉄塔) 二 錨(いかり)と怒(いか)り、いずれも「?カリ」である。ところが英語の anchor と anger が、日本人から見ればやはり互いに似ている。「?ンカー」と「?ンガー」である。 anchor はラチンの anchara でまたギリシ?の?ンキユラで「曲がった鈎(かぎ)」であり、従ってまた英の angle とも関係しているらしい。ペルシ?では lngar である。サンスクリトの lngala は鋤(すき)であるがしかし錨のような意味もあるらしい。同時に membrum virile の意味もある。ロシ?の錨はヤーコリである。こうなるとよほど日本語に接近する。「?カリ」はまた「いくり」にも似ている。 anger は??スランドの ngr や,の angor などのような「憂苦」を意味する言葉と関係があるそうで、一方ではまたスウェーデンの「悔恨」を意味する nger に通ずる。このオンゲルは「オコル」に似ている。 怒りを意味する choler はギリシ?の胆汁(たんじゅう)のコレーから来ているそうで、コレラや gall や yellow なども縁があるそうである。?カリの?が単に発語だと仮定するとこれがやはり似通(にかよ)って来るからおもしろい。ギリシ?のカレポス、オルギロス、?グリオスいずれにしても,または,の次に,または,の音がつづいて来るのがおもしろい。 ロシ?では,が,に通ずる。日本では,が,に通ずる。それで,,の代わりに,,を取ってみると英国の激怒 fury, ,の furia, furere に対する。 九州へんでは,が,に通ずる。そこで、,,の代わりに,,を取ってみると、?ラビ?の動詞 ghadiba(怒り)の中に見いだされる。この最後の ba は時によりただの,によって響きを失うことはあるのである。 名古屋(なごや)へんの言葉で怒ることをグザルというそうであるが、マレ?では gusari となっている。土佐(とさ)の一部では子供がふきげんで guzu-guzu いうのをグジレルと言い、またグジクルという。?ラビ?では「ひどく怒らせる」が ghza である。 ロシ?の「怒り」gniev はギリシ?の動詞 aganaktein の頭部に似ている。古事記の「いごのふ」にも似ている。gn をロシ?流に hn にする一方で、「忿怒(ふんぬ)」から「心」を取り去って、呉音で読めば hnn である。 英語の gnarl は「うなる」に通じる。「がなる」にも通じる。英語の vex は,の uehere に関係し「運搬」の意がありサンスクリトの vah から来たとある。日本でもオコルとオクルが似ているのと相対しておもしろい。,は往々,,また,に通じるから uehere と uokoru とはそれほど遠く離れていないのである。weigh もやはり縁があるとの事である。vah は「負う」に通じる。 腹を立てる、腹立つというのはあて字であろうと思われる。サンスクリトの krudhyati の,を,で置き換えるとともかくも hrdt という音列を得られる。これを haradati の子音と比べると同一である。偶然とするとかなり公算の少ない場合の一致である。ロシ?の serditi もやはりいくらか似ているのである。苛立(いらだ)つが irritate(L.irritare) に似ていることは明白である。 「あらぶる神」の「?ラブル」が,に rabere = to rage に似ていることも事実である。 「床屋」が何ゆえに理髪師であるか不思議である。「髪結床(かみゆいどこ)」から来たかと思われる。その「床」がわからない。 マレ?語で頭髪を剃(そ)るのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領(らんりょう)?ンドでは「店」が toko である。 マレ?の理髪師は tukang chukor また tukang gunting である。 ?ラビ?では「店」が dukkan, ペルシ?でも dukan である。ペルシ?の床屋さんは dallak である。 ギリシ?で剃るのは xurein でわが suri に通じる。髪を切る意味の cheirein は「切る」 「刈る」に通じる。 Skt. kshura は剃刀(かみそり)。krit は切るであるとすると不思議はない。 おもしろいことは、土佐で自分の子供の時代に、紙鳶(たこ)の競揚をやる際に、敵の紙鳶糸を切る目的で、自分の糸の途中に木の枝へ剃刀の刃をつけたものを取り付ける。この刃物を「シューラ?」と名づける。これは前記のサンスクリトの「クシューラ」とよく似ている。これはたしかに不思議である。 床屋も不思議だがハタゴヤもなぜ旅館だかわからない。 ギリシ?の宿屋が pandocheion でいくらか似ているのはおもしろい。パドケヤとハタゴヤである。pan と dechomai, すなわちだれでも接待する意だそうである。衆生を済度する仏がホトケであるのは偶然の洒落(しゃれ)である。 ラテンで「あるいは,あるいは,」という場合に alius A, alius B とか、alias A, alias B とか、また vel A, vel B という。alius と vel とは別物であるのに、どちらも日本の「?ル」に似ているからおもしろい。英語の or でも少しは似ている。Skt. の「または」「あるいは」は athawa である。 ロシ?で「すなわち」というような意味で、znatchiti を使う。日本の snaati と似ている。 また tak kak というのがいろいろの意味に使われるが whereas の意味では、「それはそうととにかく」の「兎角(とかく)」に通じなくない。兎(うさぎ)の角(つの)ではどうにも手に合わない。 ド?ツの noch(=nun auch) が日本語の naho に似ている。?タリ?の eppure は日本の「ヤッパリ」と同意義である。 因果関係はわからなくても似ているという事実はやはり事実である。 ことばの事実を拾い集めるのが言葉の科学への第一歩である。玉と石とを区別する前には、石も一応採集して吟味しなければならない。石を恐れて手を出さなければ玉は永久に手に入らない。 (昭和八年四月、鉄塔) 三 春(ハル)のラテン語が ver であるが、ポルトガル語の vero は夏である。ペルシ?の春は bahr, 蒙古(もうこ)(カルカ)語では h'abor である。ド?ツ語の Frhling は frh から来たとすればこれは,と,である。かなで書くとみんなハ行とラ行と結びついている点に興味がある。??ヌ語の春「パ?カラ」はだいぶちがうが、しかし,を,に、,を,に代えるとおのずからペルシ?の春に接近する。この置き換えは無理ではない。 「張る」「ふえる」「腫(は)るる」なども,または,に,の結合したものである。full, voll, πλ※,,?キュート?クセント付きε、188-上-6,ω なども連想される。 夏(ナツ)と熱(ネツ)とはいずれも,と,の結合である。現代のシナ音では、熱は jo の第四声である。「如」がジョでありニョであり、また「然」がゼンでありまたネンであると同じわけである。蒙古語(もうこご)の夏は jn である。朝鮮語(ちょうせんご)の 「ナツ」は昼である。しかし朝鮮語で夏を意味する言葉は「ヨールム」で熱がヨールである。,を,に、語尾の,を,にすると(この置き換えもそれほど無理ではない)シナの現代音になる。ハンガリーの夏は nyr(ニヤール)。コクネー英語で hot は ot であるがこれは日本語の「?ツ」に似ている。フランスの夏が t であるのもおもしろい。??ヌの夏 sak は以上とは仲間はずれであるが、しかし?ラビ?の saif に少し似ているのがおもしろい。語尾の,は kh から,になる可能性があり、日本では,が,になるのである。 秋(?キ)は「飽く」や「赤」と関係があるとの説もあるようであるが確証はないらしい。英語の autumn が「集む」と似ているのはおもしろい。これはラテンの autumnus から来たに相違ないが、このラテン語は augeo から来たとの説もある。この aug が?キとは少し似ている。「あげる」「大きい」なども連想される。 秋(シュウ)が現在の日本流では、「収」「聚(しゅう)」と同音である。 冬(フユ)は「冷(ひ)ゆ」に通じ「氷(ひょう)」に通じ χι※,,?キュート?クセント付きω、188-下-15,ν(雪)にも通じる。露語の zima は霜(シモ)や寒(サム)や梵語(ぼんご)の hima(雪)やラテンの hiems(冬)やギリシ?の cheimon(冬)やまたペルシ?語の sarmai(寒い)にも似ている。フ?ンランド語の kuura(霜)は日本の「こほり」の音便読みに近い。英語の cold は冷肉(コールミート)のコールである。氷(こお)るに近い。朝鮮語で冬は「キョーウル」である。ヘブラ?語の寒さも「コール」である。 Winter は日本語の「いてる」とどこか似ているとも言われよう。 フランス語の冬 hiver はラテンの hibernum であろうがこれを「冷える」と比べてみるのも一興である。 日本の山には「何々やま」と「何々だけ」とがある。?ラビ?の山 jabal ペルシ?の山 jebel は一見「ヤマ」と縁が遠いようであるが,が,になり,が,になる例は多いようであるから、それほど無関係ではない。(邪はジャでありヤである。馬はバでありマである) トルコ語の山 dagh は「だけ」に似ている。?ジ?中部には tagh のついた山がいろいろある。ターグは「たうげ」に似ている。 ド?ツ語の屋根 Dach は上記の dagh に通じる。「棟(むね)」が「峰(みね)」に通ずるのと類する。 ??ヌの「ヌプリ」は「登り」に通じ、山頂を意味する「タプカ」も「峠(タウゲ)」に少し似ている。峠が「たむけ」の音便だとの説は受け取れない。 山(シャン、サン)の仲間はちょっと見当たらないが、しかし??ヌの「シン」は地や陸を意味すると同時にまた「山地」(平地に対する)をも意味するそうである。これに多数を意味する接尾音をつけた「シンヌ」はたくさんな山地でこれが「信濃(しなの)」に似るなどちょっとおもしろいお慰みである。 ??ヌ語「シリ」はいろいろの意味があるがその中で陸地を意味する場合もある。またこれに他の語が結びついた時には「シリ」が山を意味する事もあるらしい。この「シリ」が梵語(ぼんご)の山「ギリ」に通じる可能性がある。 この「ギリ」は露語の「ゴーラ」に縁がありそうに見える。箱根(はこね)の強羅(ごうら)を思い出させる。また信州(しんしゅう)に「ゴーロ」という山名があり、高井富士(たかいふじ)の一部にも「ゴーロ」という地名がある。上田(うえだ)地方方言で「ゴーロ」は石地の意だそうである。土佐の山にも「ナカギリ」という地名がある。 日本の山名に「カラ」「クラ」のついたのの多い事を注意すべきである。「丘陵」も,と,である。 一方ではまた露語で,が,に代用されまた時に,のように発音されることから見ると、フ?ン語の山 vuori やチェック語の hora が同じものになるし、,が消えたり,が母音化するとギリシ?の oro や蒙古(もうこ)の oola も一つになって来る。またヘブラ?の山 har も親類になって来るから妙である。 ド?ツの Berg はだいぶちがうが、しかし,を流動的にし、,を,にすればフ?ン語に接近し、,を唇音(しんおん)の , へ導けばタミール語の malai に似て来る。後者は「盛り土」の「盛り」に似る。日本で山の名に「モリ」の多いのが、みんな「森」の意だかどうかわからない。 ラテン系の mons, monte, montagne, mountain 等は明白な一群を形成していて上記とは縁が遠く見える。これに似た日本語はちょっと思い出せない。無理に持って来れば饅頭(まんじゅう)が mound に似ている、これはおかしい。 ハンガリ?語の山 hegy(ハヂ)が「飛騨(ひだ)」に似ているのが妙である。この,はむしろ,に似た音であるから。日本語「ひたを」は小山の意である。 ペルシ?語の小山 kuh(クフ)は「丘(きゅう)」や「岡(こう)」に縁がある。??ヌの「コム」もやや似ている。この「コム」は小山であり、また瘤(こぶ)である。すなわち,を,に代えたのが日本語の「こぶ」である。これと多少の縁のあるのが英語の knob, hump, hummock, ド?ツの Knopf, Knauf などである。その他「瘤」の仲間にはマレ?の gmbal, ロシ?の gorb, ズールーの kuhan, ハンガリ?の gomb, csom 等である。 オロチは「丘の霊」だとの説がある。「オ」は「丘」で「ロ」は接尾語だということである。この「オロ」がギリシ?語や蒙古語(もうこご)の山とそっくりなのがおもしろい。 「ムレ」は山の古語だそうであるが、これは上記タミール語の malai に少し似ている。朝鮮のモ?よりもこのほうが近い。また前述の理由からド?ツ語やフ?ン語とも音声的に縁がある。 毎回断っているとおり、相似の事実を指摘するだけで、なんらの因果関係を付会するつもりはないから誤解のないように願いたい。 (昭和八年七月、鉄塔) 四 「ウミ」(海)のヘブラ?語が ym である。「ヨミノクニ」は黄泉でもあるがまた「海」だとの説もあったように思う。この「ヤーム」が「ウミ」よりもむしろ「ヤマ」に似ているのがおもしろい。西グリンランドのエスキモーの言葉 imaq は海で imeq は水である。?はいろいろに変化するから ima, ime が「ウミ」であり水である。英語の humid(水けある)の終わりの,をとれば「ウミ」に近くなり、第二綴字(てつじ)だけだと「ミヅ」になる。 英の sea はチュートンの s から来たとある。saiwiz も連関している。これが「ウシホ」(ウシオ)の「シオ」と少しは似ている。 「ワダツミ」「ワダノハラ」の「ワダ」は water や露の voda やその他同類の水を意味する言葉と類し、また「ワタル」という意味の wade(L. vadere) および関係の諸語と似ている。梵語(ぼんご) udadhi(海)が単数四格で終わりに,がつけば「ワダツミ」に近づく。 「オキ」(沖)はギリシ?「オーケ?ノス」の頭部に似る。 「カタ」(潟)はタミール語の海 kadal に近い。 朝鮮のパーターはやはり「ワタ」の群に入れ得られよう。 「ナダ」は梵語の川 nadi に似ている。 「カハ」(川、河、カワ)は「河(ホー)」と実際に縁がありそうである。その他にはシンハリースの ganga(川)とわずかばかり似るだけで、他にちょっと相手が見つからない。 「ナガレ」はもちろん「流れ」であるが、ある人の話では「ナガ」は「長」で「ルル」が「流」であろうとの事である。これを「リウ」と読むとギリシ?の「レオ」(流れる)と近い。 トルコの「ネフル nehr」(川)は,を例の,にすると、「ナガレ」に近よる。 朝鮮の「ナ?」(川)と??ヌの「ナ?」(川、谷)はそっくりであることから見ると日本内地でも同じ言葉で川を意味する地名がありそうに思う。 土佐に奈半利(なはり)川と伊尾木(いおき)川とが並んでいる。おもしろいことには、?ラビ?語の川は「ナフル」、ヘブラ?のが「ナハル」「ナーバール」等。フ?ン語の川は yoki 「ヨキ」である。もちろん、直接の縁があろうとは思われぬ。また上記の川名も川の名が先か土地の名が先か、それもわからない。「なばりの山」もあるから。 朝鮮の「ムール」は蒙古語(もうこご)らしい。カルカ語の川は mrn である。 人間の頭部「かうべ」「くび」に連関して「かぶと」「かむり(冠)」「かぶり」「かぶ(株)」「かぶ(頭)」「くぶ(くぶつち)」「こぶ(瘤)」「かぶら(蕪菁)またかぶ」「かぶら(鏑)」「こむら(腓)」「こむら()」などが連想される。これに対して想起される外国語ではまず英語でもあり、ラテンの語根でもあるところの cap がある。青森(あおもり)の一地方の方言では頭が「がっぺ」である。ラテンの caput は兜(かぶと)とほぼ同音である。独語の Kopf, Haupt も同類と考えられる。ギリシ?の κεψαλ※,,?キュート?クセント付きη、193-上-11,, マレ?の kpala は「かむり」「かぶり」の類である。 和名鈔(わみょうしょう)には「顱(ろ) 和名加之良乃加波長(わみょうかしらのかはら) 脳蓋也(のうがいなり)」とあるそうで「カハラ」は頭の事である。ギリシ?やマレ?とほとんど同一である。 ?ラビ?の頭骨 qahfun は「カフフ」で「かうべ」に近い。 英語の円頂閣 cupola はラテンの cupa(樽(たる))から来たそうであるが、現在の流義では同一群に属する。 英語の head はチュートン系の haubd といったような語から来ているが、音韻法則によると,のカプトとは別だそうである。しかしこの「ハウプト」は、そんな方則を無視するここの流義では、やはり兜の組である。 頭部を「つむり」とも言う。これは,の tumuli(堆土(たいど))と同音である。cumuli(積雲)は「かむり」のほうである。 「あたま」も頭部である。梵語(ぼんご) tman は「精神」であり「自己」である。「たま」は top に通じる。 敵の首級を獲ることを「しるしをあげる」と言う。「しるし」が頭のことだとすると、これは梵語の siras(頭)、sirsham(頭)に似ている。 八頭の大蛇(だいじゃ)を「ヤマタノオロチ」という。この「マタ」が頭を意味するとすると、これはベンガリ語の mth(頭)やグジャラチの mthoonやヒンドスタニ語の mund に縁がある。これが子音転換すれば「タマ」になる。 髑髏(どくろ)を「されかうべ」と言う。この「され」は「曝(さ)れ」かもしれないが、ペルシ?語の sar は頭である。 「唐児(からこ)わげ」を「からわ」という。日本紀(にほんぎ)に角子を「あげまきからわ」と訓してあるそうで、もしかすると「からわ」また「からは」は初めには頭を意味したかもしれない。とにかくロシ?の golova, glava(セルボ?クロ?チ?も同じ)、チェッコの hlava, ズールの inhloko(in は接頭語)等いずれも「カラワ」と音が近い。 またこれらは子音転換(メタテシス)によれば前述の,,,の群になるのである。 冠(かんむり)の「?ソ」というのは俚言集覧(りげんしゅうらん)には「額より頭上をおおう所を言う」とあるが、シンハリース語の isa は頭である。ハンガリ?では esz がそうである。もっとも「?ソ」はまた冠の縁や楽器の縁辺でもある。海の縁でもあるから、頭と比較するのは無理かもしれない。しかし「上」は「ほとり」と訓(よ)まれることがあるのである。 「かうべ」の群中へ、かりに「神(かみ)」と「上(かみ)」も「髪(かみ)」も入れておく。 朝鮮語「モーリ(頭)」は「つむり」の「むり」と比較される。「つ」はわからない。蒙古(もうこ)カルカ語の tologai はタミール語の tali に通じる。 「かしら」に似たものがちょっと見つからなかった。ところが,の capillus はもとは cap(頭)の dim. だそうで caput や、ギリシ?の「ケフ?レ」も同じものである。そうして、この「カピラ」は「毛髪」の意に使われている。これが「カヒラ」を経て「カシラ」になりうるのである。言海によると「カシラ」は「髪」の意にも使われているからちょうど勘定が合うのである。そうすると「かしら」も結局「かむり」「かぶり」の群に属する。 (昭和八年八月、鉄塔) ,教授の死 寺田寅彦 さわやかな若葉時も過ぎて、日増しに黒んで行く青葉のこずえにうっとうしい微温の雨が降るような時候になると、十余年ほど前に東京の,ホテルで客死したスカンジナビ?の物理学者,教授のことを毎年一度ぐらいはきっと思い出す。しかし、なにぶんにももうだいぶ古いことであって、記憶が薄くなっている上に、何度となく思い出し思い出ししているうちには知らず知らずいろいろな空想が混入して、それがいつのまにか事実と完全に融(と)け合ってしまって、今ではもうどこまでが事実でどこからが空想だかという境目がわからない、つまり一種の小説のような、というよりもむしろ長い年月の間に幾度となく蒸し返された悪夢の記憶に等しいものになってしまった。これまでにもなんべんかこれに関する記録を書いておきたいと思い立ったことはあったが、いざとなるといつでも何かしら自分の筆を渋らせるあるものがあるような気がして、ついついいつもそれなりになってしまうのであった。しかし、また一方では、どうしても何かこれについて簡単にでも書いておかなければ自分の気がすまないというような心持ちもする。それで、多少でもまだ事実の記憶の消え残っている今のうちに、あらましのことだけをなるべくザハリッヒな覚え書きのような形で書き留めておくことにしようと思う。 欧州大戦の終末に近いある年のたぶん五月初めごろであったかと思う。ある朝当時自分の勤めていた,大学の事務室にちょっとした用があってはいって見ると、そこに見慣れぬ 年取った禿頭(とくとう)のわりに背の低い西洋人が立っていて、書記の,氏と話をしていた。,氏は自分にその人の名刺を見せて、このかたが,教室の図書室を見たいと言っておられるが、どうしましょうかというのである。その名刺を見ると、それは,国の,大学教授で空中窒素の固定や北光の研究者として有名な物理学者の,教授であった。同教授にはかつてその本国で会ったことがあるばかりでなく、その実験室で北光に関する有名な真空放電の実験を見せてもらったり、その上に私邸に呼ばれてお茶のごちそうになったりしたことがあったので、すぐに昔の顔を再認することができたが、教授のほうではどうもあまりはっきりした記憶はないらしかった。 教授が今ここの図書室で見たいと言った本は、同教授の関係した北光観測のエキスペジションの報告書であったが、あいにくそれが当時の,教室になかったので、あてにして来たらしい教授はひどく失望したようであった。 それはとにかく、自分らの教室にとっては誠に思いがけない遠来の珍客なので、自分は急いで教室主任の,教授や,老教授にもその来訪を知らせ引き合わせをしたのであったが、両先生ともにいずれも全然予期していなかったこの碩学(せきがく)の来訪に驚きもしまた喜ばれもされたのはもちろんである。しかし,教授はどういうものかなんとなしに元気がなく、また人に接するのをひどく大儀がるようなふうに見えた。 それから二三日たって、箱根(はこね)のホテルからの,教授の手紙が来て、どこか東京でごく閑静な宿を世話してくれないかとのことであった。たしか、不眠症で困るからという理由であったかと思う。当時,公園に,軒付属のホテルがあったので、そこならば市中よりはいくらか閑静でいいだろうと思ってそのことを知らせてやったら、さっそく引き移って来て、幸いに存外気に入ったらしい様子であった。 その後、時々,教室の自分の部屋(へや)をたずねて来て、当時自分の研究していた地磁気の急激な変化と、,教授の研究していた大気上層における荷電粒子の運動との関係についていろいろ話し合ったのであったが、何度も会っているうちに、,教授のどことなくひどく憂鬱(ゆううつ)な憔忰(しょうすい)した様子がいっそうはっきり目につきだした。からだは相当肥(ふと)っていたが、蒼白(そうはく)な顔色にちっとも生気がなくて、灰色のひとみの底になんとも言えない暗い影があるような気がした。 あるひどい雨の日の昼ごろにたずねて来たときは薄絹にゴムを塗った蝉(せみ)の羽根のような雨外套(あまがいとう)を着ていたが、蒸し暑いと見えて広くはげ上がった額から玉のような汗の流れるのをハンケチで押しぬぐい押しぬぐい話をした。細かい灰色のまばらな髪が逆立っているのが湯げでも立っているように見えた。その時だけは顔色が美しい桜色をして目の光もなんとなく生き生きしているようであった。どういうものかそのときの顔がいつまでもはっきり自分の印象に残っている。 一度,軒に呼ばれて昼飯をいっしょにごちそうになったときなども、なんであったか忘れたが学問には関係のないおどけた冗談を言ったりして珍しい笑顔(えがお)を見せたこともあった。 ある日少しゆっくり話したいことがあるから来てくれと言って来たのでさっそく行ってみると、寝巻のまま寝台の上に横になっていた。少しからだのぐあいが悪いからベッドで話すことをゆるしてくれという。それから、きょうはどうもド?ツ語や英語で話すのは大儀で苦しいからフランス語で話したいが聞いてくれるかという。自分はフランス語はいちばん不得手だがしかしごくゆっくり話してくれればだいたいの事だけはわかるつもりだと言ったら、それで結構だと言ってぽつぽつ話しだしたが、その話の内容は実に予想のほかのものであった。 自分にわかっただけの要点はおおよそ次のようなものであったと思う。しかし、聞き違 え、覚え違いがどれだけあるか、今となってはもうそれを確かめる道はなくなってしまったわけである。 ,教授は欧州大戦の刺激から得たヒントによってある軍事上に重要な発明をして、まず,国政府にその使用をすすめたが採用されないので次に某国に渡って同様な申し出をした。某国政府では詳しくその発明の内容を聞き取り、若干の実験までもした後に結局その採用は拒絶してしまった。しかしどういうものかそれ以来その某国のスパ?らしいものが,教授の身辺に付きまつわるようになった、少なくも,教授にはそういうふうに感ぜられたそうである。その後教授が半ばはその研究の資料を得るために半ばはこの自分を追跡する暗影を振り落とすために?フリカに渡ってヘルワンの観測所の屋上で深夜にただ一人黄道光の観測をしていた際など、思いもかけぬ砂漠(さばく)の暗やみから自分を狙撃(そげき)せんとするもののあることを感知したそうである。この夜の顛末(てんまつ)の物語はなんとなく?ラビ?ンナ?トを思い出させるような神秘的なロマンチックな詩に満ちたものであったが、惜しいことに細かいことを忘れてしまった。 「それから船便を求めてあてのない極東の旅を思い立ったが、乗り組んだ船の中にはもうちゃんと一人スパ?らしいのが乗っていて、明け暮れに自分を監視しているように思われた。日本へ来ても箱根(はこね)までこの影のような男がつきまとって来たが、お前のおかげでここへ来てから、やっとその追跡からのがれたようである。しかしいつまでのがれられるかそれはわからない。」 「これだけの事を一度だれかに話したいと思っていたが、きょう君にそれを話してこれでやっと気が楽になった。」 ゆっくりゆっくり一句一句切って話したので、これだけ話すのにたぶん一時間以上もかかったかと思う。話してしまってから、さもがっかりしたように枕(まくら)によりかかったまま目をねむって黙ってしまったので、長座は悪いだろうと思って遠慮してすぐに帰って来た。 翌朝,教室へ出勤するとまもなく,軒から電話で,教授に事変が起こったからすぐ来てくれとの事である。急病でも起こったらしいような口ぶりなので、まず取りあえず,教授に話をして医科の,教授を同伴してもらう事を頼んでおいて急いで,軒に駆けつけた。 ボー?がけさ部屋(へや)をいくらたたいても返事がないから合いかぎでド?を明けてはいってみると、もうすでに息が絶えているらしいので、急いで警察に知らせると同時に大学の自分のところへ電話をかけたということである。 ベッドの上に掛け回したまっ白な寒冷紗(かんれいしゃ)の蚊帳(かや)の中に,教授の静かな寝顔が見えた。枕上(まくらがみ)の小卓の上に大型の扁平(へんぺい)なピストルが斜めに横たわり、そのわきの水飲みコップの、底にも器壁にも、白い粉薬らしいものがべとべとに着いているのが目についた。 まもなく刑事と警察医らしい人たちが来て、はじめて蚊帳を取り払い、毛布を取りのけ寝巻の胸を開いてからだじゅうを調べた。調べながら刑事の一人が絶えず自分の顔をじろじろ見るのが気味悪く不愉快に感ぜられた。,教授の禿頭(とくとう)の頂上の皮膚に横にひと筋紫色をしてくぼんだ跡のあるのを発見した刑事が急に緊張した顔色をしたが、それは寝台の頭部にある真鍮(しんちゅう)の横わくが頭に触れていた跡だとわかった。 刑事が小卓のコップのそばにあった紙袋を取り上げて調べているのをのぞいて見たら、袋紙には赤?ンキの下手(へた)な字で「ベロナール」と書いてあった。呼び出されたボー?の証言によると、昨夜この催眠薬を買って来いというので、一度買って帰ったが、もっとたくさん買って来いという、そんなに飲んだら悪いだろうと言ってみたが、これがないと、どうしても眠られない、飲まないと気が違いそうだからぜひにと嘆願するので、し かたなくもう一ぺん薬屋にわけを話して買って来たのだということであった。 そのうちに,教授と,教授がやって来た。続いて,国領事のバロン何某と中年のスカンジナビ?婦人が二人と駆けつけて来た。婦人たちがわりに気丈でぎょうさんらしく騒がないのに感心した。 室の片すみのデスクの上に論文の草稿のようなものが積み上げてある。ここで毎日こうして次の論文の原稿を書いていたのかと思って、その一枚を取り上げてなんの気なしにながめていたら、,教授がそれに気づくと急いでやって来て自分の手からひったくるようにそれを取り上げてしまった、そうしてボー?を呼んでその原稿いっさいを紙包みにしてひもで縛らせ、それを領事に手渡しした。そうして、それを封印をして本国大学に送ってもらいたいというようなことを厳粛な口調で話していた。 領事のほうからは、本国の家族から事後の処置に関する返電の来るまで遺骸(いがい)をどこかに保管してもらいたいという話があって、結局,教授の計らいで,大学の解剖学教室でそれを預かることになった。 同教室に運ばれた遺骸に防腐の薬液を注射したのは、これも今は故人になった,教授であった。その手術の際に,教授が、露出された遺骸の胸に手のひらをあてて Noch warm ! と言って一同をふり向いたとき、領事といっしょにここまでついて来ていた婦人の一人の口からかすかなしかし非常に驚いたような嘆声がもれた。,教授はしかし「これはよくあるポストモルテムの現象ですよ」と言い捨てて、平気でそろそろ手術に取りかかった。 葬式は一番町(いちばんちょう)のある教会で行なわれた。梅雨晴(つゆば)れのから風の強い日であって、番町へんいったいの木立ちの青葉が悩ましく揺れ騒いで白い葉裏をかえしていたのを覚えている。自分は教会の門前で柩車(きゅうしゃ)を出迎えた後霊柩に付き添って故人の勲章を捧持(ほうじ)するという役目を言いつかった。黒天鵞絨(くろびろうど)のクションのまん中に美しい小さな勲章をのせたのをひもで肩からつり下げそれを胸の前に両手でささげながら白日の下を門から会堂までわずかな距離を歩いた。冬向きにこしらえた一ちょうらのフロックがひどく暑苦しく思われたことを思い出すことができる。 会堂内で葬式のプログラムの進行中に、突然堂の一隅(いちぐう)から鋭いソプラノの独唱の声が飛び出したので、こういう儀式に立ち会った経験をもたない自分はかなりびっくりした。あとで聞いたら、その独唱者は音楽学校の教師の,夫人で、故人と同じスカンジナビ?の人だという縁故から特にこの日の挽歌(ばんか)を歌うために列席したのであったそうである。ただその声があまりに強く鋭く狭い会堂に響き渡って、われわれ日本人の頭にある葬式というものの概念に付随したしめやかな情調とはあまりにかけ離れたもののような気がしたのであった。 遺骸(いがい)は町屋(まちや)の火葬場で火葬に付して、その翌朝,老教授と,教授と自分と三人で納骨に行った。炉から引き出された灰の中からはかない遺骨をてんでに拾いあつめては純白の陶器の壺(つぼ)に移した。並みはずれに大きな頭蓋骨(ずがいこつ)の中にはまだ燃え切らない脳髄が漆黒な?スフ?ルトのような色をして縮み上がっていた。 ,教授は長い竹箸(たけばし)でその一片をつまみ上げ「この中にはずいぶんいろいろなえらいものがはいっていたんだなあ」と言いながら、静かにそれを骨壺(こつつぼ)の中に入れた。そのとき自分の眼前には忽然(こつぜん)として過ぎし日の,大学における,教授の実験室が現われるような気がした。 大きな長方形の真空ガラス箱内の一方に,教授が「テレラ」と命名した球形の電磁石がつり下がっており、他の一方には陰極が插入(そうにゅう)されていて、そこから強力な 陰極線が発射されると、その一道の電子の流れは球形磁石の磁場のためにその経路を彎曲(わんきょく)され、球の磁極に近い数点に集注してそこに螢光(けいこう)を発する。その実験装置のそばに僧侶(そうりょ)のような黒頭巾(くろずきん)をかぶった,教授が立って説明している。この放電のために特別に設計された高圧直流発電機の低いうなり声が隣室から聞こえて来る。 そんな幻のような記憶が瞬間に頭をかすめて通ったが、現実のここの場面はスカンジナビ?とは地球の反対側に近い日本の東京の郊外であると思うと妙な気がした。 それからひと月もたって、,教授の形見だと言って,国領事から自分の所へ送って来たのは大きな鋳銅製の虎(とら)の置き物であった。,教授の所へは同じ鋳物の象が来たそうである。たぶんみやげにでもするつもりで,教授が箱根(はこね)あたりの売店で買い込んであったものかと思われた。せっかくの形見ではあるがどうも自分の趣味に合わないので、押し入れの中にしまい込んだままに年を経た。大掃除(おおそうじ)のときなどに縁側に取り出されているこの銅の虎を見るたびに当時の記憶が繰り返される。大掃除の時季がちょうどこの思い出の時候に相当するのである。 ,軒の,教授の部屋(へや)の入り口の内側の柱に土佐(とさ)特産の尾長鶏(おながどり)の着色写真をあしらった柱暦のようなものが掛けてあった。それも宮(みや)の下(した)あたりで買ったものらしかったが、教授のなくなった日、室のボー?が自分にこの尾長鶏を指さしながら「このお客さんは、いつも、世の中にこのくらい悲惨なものはないと言っていましたよ」と意味ありげに繰り返して話していた。しかしなぜ尾長鶏がそんなに悲惨なものと,教授に思われたか、これが今日までもどうしても解けない不思議ななぞとして自分の胸にしまい込まれている。 ボー?について思い出したことがもう一つある。やはりこの事変の日に刑事たちが引き上げて行ったあとで、ボー?が二三人で教授のピストルを持ち出して室の前の庭におりた。そうして庭のすぐ横手の崖(がけ)一面に茂ったつつじの中へそのピストルの弾(たま)をぽんぽん打ち込んで、何かおもしろそうに話しながらげらげら笑っていた。つつじはもうすっかり散ったあとであったが、ほんの少しばかりところどころに茶褐色(ちゃかっしょく)に枯れちぢれた花弁のなごりがくっついていたことと、初夏の日ざしがボー?のまっ白な給仕服に照り輝き、それがなんとも言えないはかない空虚な絶望的なものの象徴のように感ぜられたことを思い出すのである。 (昭和十年七月、文学) 読書の今昔 寺田寅彦 現代では書籍というものは見ようによっては一つの商品である。それは岐阜提灯(ぎふちょうちん)や絹ハンケチが商品であると同じような意味において商品である。その一つの証拠にはどこのデパートメント?スト?ーでもちゃんと書籍部というのが設けられている。そうして大部分はよく売れそうな書物を並べてあるであろうが、中にはまたおそらくめったには売れそうもない立派な書籍も陳列されている。それはちょうど手ぬぐい浴衣(ゆかた)もあればつづれ錦(にしき)の丸帯もあると同様なわけであって、各種階級の購買者の需要を満足するようにそれぞれの生産者によって企図され製作されて出現し陳列されているに相違ない。 商品として見た書籍はいかなる種類の商品に属するか。米、味噌(みそ)、茶わん、箸(はし)、飯櫃(めしびつ)のような、われわれの生命の維持に必需な材料器具でもない。衣服や住居の成立に欠くべからざる品物ともちがう。それかといって棺桶(かんおけ)や位牌(いはい)のごとく生活の決算時の入用でもない。まずなければないでも生きて行くだけにはさしつかえはないもののうちに数えてもいいように思われる。実際今でも世界じゅうには生涯(しょうがい)一冊の書物も所有せず、一行の文章も読んだことのない人間は、かなりたくさんに棲息(せいそく)していることであろう。こういうふうに考えてみると、書物という商品は、岐阜提灯や絹ハンケチや香水や白粉(おしろい)のようなものと同じ部類に属する商品であるように思われて来るのである。 毎朝起きて顔を洗ってから新聞を見る。まず第一ページにおいてわれわれの目に大きく写るものが何であるかと思うと、それは新刊書籍、雑誌の広告である。世界じゅうの大きな出来事、日本国内の重要な現象、そういうもののニュースを見るよりも前にまずこの商品の広告が自然にわれわれの眼前に現われて来るのである。 自分の知る範囲での外国の新聞で、こういう第一ページをもったものは思い出すことができない。日本にオリジナルな現象ではないかという気がする。このような特異の現象の生ずるにはそれだけの特異な理由がなければならない。また、こうなるまでには、こうなって来た歴史があるであろうが、それは自分にはわからない。 しかしこの現象から、日本人は世界じゅうで最もはなはだしく書籍を尊重し愛好する国民であるということを推論することはできない。なんとなれば、この現象からむしろ反対の結論に近いものを抽出することも不可能ではないからである。すなわち、もしもすべての人が絶対必要として争って購買するものならば何も高い広告料を払って大新聞の第一ページの大半を占有する必要は少しもないであろう。反対に広告などはいっさいせずに秘密にしておいても、人々はそれからそれと聞き伝えて、どうかして一本を手に入れたいと思う人がおのずから門前に市をなすことあたかも職業紹介所の門前のごとくなるであろう。 商品の新聞広告で最も広大な面積を占有するものは書籍と化粧品と売薬である。この簡単明瞭(めいりょう)なる一つの事実は何を意味するか。これはこの三つのものが、商品としての本質上ある共通な性質をもっていることを示すものと考えられる。 その第一の共通点は、内容類似の品が多数であって、従って市場における競争のはげしいということである。もしもそれらのある商品の内容が他の類品に比べて著しく優秀であって、そうして、その優秀なことが顧客に一目ですぐわかるのであったら、広告の意義と効能は消滅するであろう。しかるに化粧品や売薬の類は実際使いくらべてみた当人にも優劣の確かな認識はできない。評判のいいほうがなんとなくいいように思われるくらいのものである。書籍の場合はまさかにそれほどではないとしても、大多数の読書界の各員が最高の批判能力をもっていない限り、やはり評判の高いほうを選む。そうして評判は広告と宣伝によって高まるとすれば、書籍の生産者が売薬化粧品商と同一の手段を選ぶのは当然のことであって、これをとがめるのは無理であろう。ただ現在日本で特にこの現象の目立つのは、思うにそれぞれの方面において書籍の価値批評をする権威あり信用ある機関が欠乏しているためか、あるいはそういうものがあっても、多数の人がそれに重きを置かずして、かえってやはり新聞広告の坪数で価値を判断するような習慣に養成され、そうしてあえてみずから疑ってみる暇(いとま)がないためであるかもしれない。 化粧品や売薬と、商品として見た書籍とを比較する場合に一つの大きな差別の目標となるのは、古本屋というものに対する古化粧品屋、古売薬屋の存在しないことである。神田(かんだ)の夜店を一晩じゅう捜してもたぶん明治年間に流行した化粧品売薬を求めるこ とはできないであろう。しかし書籍ならば大概のものは有数な古書籍店に頼んでおけばどこかで掘り出して来てもらえるようである。 それにしても神保町(じんぼうちょう)の夜の露店の照明の下に背を並べている円本(えんぽん)などを見る感じはまずバナナや靴下(くつした)のはたき売りと実質的にもそうたいした変わりはない。むしろバナナのほうは景気がいいが、書物のほうはさびしい。 「二人行脚(ににんあんぎゃ)」の著者故日下部四郎太(くさかべしろうた)博士がまだ大学院学生で岩石の弾性を研究していたころのことである。一日氏の机上においてある紙片を見ると英語で座右の銘とでもいったような金言の類が数行書いてあった。その冒頭の一句が「少なく読み、多く考えよ」というのであった。他の文句は忘れてしまったが、その当時の自分の心境にこの文句だけが適応したと見えて今でもはっきり記憶に残っている。今から考えてみると日下部博士のようなオリジナルな頭脳をもった人には、多く読み少なく考えるという事はたといしようと思ってもできない相談であったかもしれない。書物を開いて、ものの半ページも読んで行くうちに、いろいろの疑問や思いつきが雲のごとくむらがりわき起こって、そのほうの始末に興味を吸収されてしまうような場合が多かったのではないかと想像される。 こういう種類の頭脳に対しては書籍は一種の点火器のような役目をつとめるだけの場合が多いようである。大きな炎をあげて燃え上がるべき燃料は始めから内在しているのである。これに反してたとえば昔の漢学の先生のうちのある型の人々の頭はいわば鉄筋コンクリートでできた明き倉庫のようなものであったかもしれない。そうしてその中に集積される材料にはことごとく防火剤が施されていたもののようである。 いずれにしても無批判的な多読が人間の頭を空虚にするのは周知の事実である。書物のなかったあるいは少なかった時代の人間のほうがはるかに利口であったような気もするが、これは疑問として保留するとして、書物の珍しかった時代の人間が書物によって得られた幸福の分量なり強度なりが現代のわれわれのそれよりも多大であったことは確かであろう。蘭学(らんがく)の先駆者たちがたった一語の意味を判読し発見するまでに費やした辛苦とそれを発見したときの愉悦とは今から見れば滑稽(こっけい)にも見えるであろうが、また一面には実にうらやましい三昧(ざんまい)の境地でもあった。それに比べて、求める心のないうちから嘴(くちばし)を引き明けて英語、ド?ツ語と咽喉仏(のどぼとけ)を押し倒すように詰め込まれる今の学童は実にしあわせなものであり、また考えようではみじめなものでもある。 子供の時分にやっとの思いで手にすることのできた雑誌は「日本の少年」であった。毎月一回これが東京から郵送されて田舎(いなか)に着くころになると、郵便屋の声を聞くたびに玄関へ飛び出して行ったものである。甥(おい)の家では「文庫」と「少国民」をとっていたのでこれで当時の少青年雑誌は全部見られたようなものである。そうして夜は皆で集まって読んだものの話しくらをするのであった。明治二十年代の田舎の冬の夜はかくしてグリムや?ンデルセンでにぎやかにふけて行ったのである。「しり取り」や「化け物カルタ」や「ヤマチチの話」の中に、こういう異国の珍しく美しい物語が次第に入り込んで雑居して行った径路は文化史的の興味があるであろう。今書店の店頭に立っておびただしい少年少女の雑誌を見渡し、あのなまなましい色刷りの紙をながめる時に今の少年少女をうらやましく思うよりもかえってより多くかわいそうに思うことがある。 生まれて初めて自分が教わったと思われる書物は、昔の読本であって、その最初の文句が「神は天地の主宰にして人は万物の霊なり」というのであった。たぶん、外国の読本の直訳に相違ないのであるが、今考えてみるとその時代としては恐ろしい危険思想を包有した文句であった。先生が一句ずつ読んで聞かせると、生徒はすぐ声をそろえてそれを 繰り返したものであるが、意味などはどうでもよかったようである。その読本にあったことで今でも覚えているのは、あひるの卵をかえした牝鶏(めんどり)が、その養い子のひよっこの「水におぼれんことを恐れて」鳴き立てる話と、他郷に流寓(りゅうぐう)して故郷に帰って見ると家がすっかり焼けて灰ばかりになっていた話ぐらいなものである。そうしてこの牝鶏と帰郷者との二つの悪夢はその後何十年の自分の生活に付きまとって、今でも自分を脅かすのである。そのころ福沢翁(ふくざわおう)の著わした「世界国づくし」という和装木版刷りの書物があった。全体が七五調の歌謡体になっているので暗記しやすかった。そのさし絵の木版画に現われた西洋風景はおそらく自分の幼い頭にエキゾチズムの最初の種子を植え付けたものであったらしい。テヘラン、?スパハンといったようないわゆる近東の天地がその時分から自分の好奇心をそそった、その惰性が今日まで消えないで残っているのは恐ろしいものである。「団々珍聞(まるまるちんぶん)」という「ポンチ」のまねをしたもののあったのもそのころである。月給鳥という鳥の漫画には「この鳥はモネーモネーと鳴く」としたのがあったのを覚えている。官権党対自由党の時代であったのである。今のブル対プロに当たるであろう。歴史は繰り返すのである。 「諸学須知(しょがくしゅち)」「物理階梯(ぶつりかいてい)」などが科学への最初の興味を注入してくれた。「地理初歩」という薄っぺらな本を夜学で教わった。その夜学というのが当時盛んであった政社の一つであったので、時々そういう社の示威運動のようなものが行なわれ、おおぜいで提灯(ちょうちん)をつけて夜の町を駆けまわり、また時々は南磧(みなみがわら)で繩奪(なわうば)い旗奪いの競技が行なわれた。ある時はある社の若者が申し合わせて一同頭をクリクリ坊主にそり落として市中を練り歩いたこともあった。 宅(うち)の長屋に重兵衛(じゅうべえ)さんの家族がいてその長男の楠(くす)さんというのが裁判所の書記をつとめていた。その人から英語を教わった。ウ?ルソンかだれかの読本を教わっていたが、楠さんはたぶん奨励の目的で将来のを立てて見せてくれた。パーレー万国史、クヮッケンボス文典などという書名を連ねた紙片に過ぎなかったが、それが恐ろしく幼い野心を燃え立たせた。いよいよパーレーを買いに行ったとき本屋の番頭に「たいそうお進みでございますねえ」といわれてひどくうれしがったものである。その時の幼稚な虚栄心の満足が自分の将来の道を決定するいろいろな因子の中の一つになったかもしれないという気がする。この楠さんはまたゲーテの「狐(きつね)の裁判」の翻訳書を貸してくれた人である。「漢楚軍談(かんそぐんだん)」「三国志(さんごくし)」「真田三代記(さなださんだいき)」の愛読者であったところの明治二十年ごろの田舎(いなか)の子供にこのラ?ネケフックスのおとぎ話はけだし天啓の稲妻であった。可能の世界の限界が急に膨張して爆発してしまったようなものであったに相違ない。 やはりそのころ近所の年上の青年に仏語を教わろうとしたことがある。「レクチュール」という読本のいちばん初めの二三行を教わったが、父から抗議が出てやめてしまった。英語がまだ初歩なのに仏語をちゃんぽんに教わっては不利益だという理由であったが、実際はその教師となるべき青年が近隣で不良の二字をかぶらせた青年であるがためだということが後にわかって来た。思うにかれは当時の新思想の持ち主であったのである。それから十年の後高等学校在学中に熊本(くまもと)の通町(とおりまち)の古本屋で仏語読本に鉛筆ですきまなしにかなの書き入れをしたのを見つけて来て独習をはじめた。抑圧された願望がめざめたのである。子供に勉強させるには片端から読み物に干渉して良書をなるべく見せないようにするのも一つの方法であるかもしれない。そうして読んでいけないと思う種類の書物を山積して毎日の日課として何十ページずつか読むように命令するのも一法であるかもしれない。 楠(くす)さんも、この不良と目された不幸な青年も夭死(ようし)してとくの昔になくなったが、自分の思い出の中には二人の使徒のように頭上に光環をいただいて相並んで立っているのである。この二人は自分の幼い心に翼を取りつけてくれた恩人であった。 楠さんの弟の亀(かめ)さんはハゴを仕掛けて鳥を捕えたり、いろいろの方法でうなぎを取ったりすることの天才であった。この亀さんから自分は自然界の神秘についていかなる書物にも書いてない多くのものを学ぶことができた。 中学時代の初期には「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」や「八犬伝(はっけんでん)」などを読んだ。田舎(いなか)の親戚(しんせき)へ泊まっている間に「梅暦(うめごよみ)」をところどころ拾い読みした記憶がある。これらの読み物は自分の五体の細胞の一つずつに潜在していた伝統的日本人をよびさまし明るみへ引き出すに有効であった。「絵本西遊記(えほんさいゆうき)」を読んだのもそのころであったが、これはフ?ンタジーの世界と超自然の力への憧憬(どうけい)を挑発(ちょうはつ)するものであった。そういう意味ではそのころに見た松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)の西洋奇術もまた同様な効果があったかもしれないのである。ジュール?ヴェルヌの「海底旅行」はこれに反して現実の世界における自然力の利用がいかに驚くべき可能性をもっているかを暗示するものであった。それから四十年後の近ごろになって新聞で潜航艇ノーチラスの北極探検に関する記事を読み、パラマウント発声映画ニュースでその出発の光景を見ることになったわけである。この「海底旅行」や「空中旅行」「金星旅行」のようなものが自分の少年時代における科学への興味を刺激するに若干の効果があったかもしれない。 洪水(こうずい)のように押し込んで来る西洋文学の波頭はまずいろいろなおとぎ話の翻訳として少年の世界に現われた。おとなの読み物では民友社のたしか「国民小説」と名づけるシリースにいろいろの翻訳物が交じっていた。矢野竜渓(やのりゅうけい)の「経国美談」を読まない中学生は幅がきかなかった。「佳人の奇遇」の第一ページを暗唱しているものの中に自分もいたわけである。 宮崎湖処子(みやざきこしょし)の「帰省」が現われたとき当時の中学生は驚いた。尋常一様な現実の生活の描写が立派な文学でありうるのみか、あらゆる在来の文学中に求め得られない新鮮な美しさを包蔵しうるという事実を発見して驚いたのであった。?ーヴ?ングの「スケッチブック」が英学生の間に流行していたのもそのころであったと思う。 松村介石(まつむらかいせき)の「リンカーン伝」は深い印銘を受けたものの一つである。リンカーンはたった三冊の書物によってかれの全性格を造り上げたという記事が強く自分を感動させたのであったが、この事実は書物の洪水の中に浮沈する現在の青少年への気付け薬になるかもしれない。 「リンカーン伝」でよびさまされた自分の中のあるものがユーゴーの「ミゼラブル」でいっそう強くあおり立てられたようである。当時まだ翻訳は無かったように思うが、自分の見たのは英訳の抄訳本(しょうやくぼん)でただ物語の筋だけのものであった。そうして当時の自分の英語の力では筋だけを了解するのもなかなかの骨折りであったが、そのおかげで英語が急に進歩したのも事実であった。学校で教わっていた「クラ?ブ伝」や「ヘスチング」になんの興味も感じることのできなくてかわき切っていた頭にあたたかい人間味の雨をそそいだのであった。この雨が深くしみ込んで、よかれあしかれその後の生活に影響したような気がする。 当時は「明治文庫」「新小説」「文芸倶楽部(ぶんげいくらぶ)」などが並立して露伴(ろはん)、紅葉(こうよう)、美妙斎(びみょうさい)、水蔭(すいいん)、小波(さざなみ)といったような人々がそれぞれの特色をもってプレ?デスのごとく輝いていたものである。氏らが当時の少青年の情緒的教育に甚大(じんだい)な影響を及ぼしたことはおそら くわれわれのみならずまたいわゆる教育家たちの自覚を超越するものであったに相違ない。 たしか「少年文学」と称する叢書(そうしょ)があって「黄金丸(こがねまる)」「今弁慶(いまべんけい)」「宝の山」「宝の庫(くら)」などというのが魅惑的な装幀(そうてい)に飾られて続々出版された。富岡永洗(とみおかえいせん)、武内桂舟(たけうちけいしゅう)などの木版色刷りの口絵だけでも当時の少年の夢の王国がいかなるものであったかを示すに充分なものであろう。 これらの読み物を手に入れることは当時のわれわれにはそれほど容易ではなかった。二十銭三十銭を父母にもらい受ける手数のほかに書店にたのんで取り寄せてもらう手続きがあった。しかし何度も本屋へ通(かよ)ってまだかまだかと催促してやっと手に入れたときの喜びはおそらくそのころのわれわれ仲間の特権であったかもしれない。 当時の田舎(いなか)の本屋はいばったものであったような気がする。われわれは頭を下げて売ってもらっていたような感じがある。これは当然であったかもしれない。少なくもわれわれにとって書物は決して「商品」ではなかった。それは尊い師匠であり、なつかしい恋人であって、本屋はそれをわれわれに紹介してくれるだいじな仲介者であったわけである。 読書の選択やまた読書のしかたについて学生たちから質問を受けたことがたびたびある。これに対する自分の答えはいつも不得要領に終わるほかはなかった。いかなる人にいかなる恋をしたらいいかと聞かれるのとたいした相違はないような気がする。時にはこんな返答をすることもある。「自分でいちばん読みたいと思う本をその興味のつづく限り読む。そしていやになったら途中でもかまわず投げ出して、また次に読みたくなったものを読んだらいいでしょう」大根が食いたくなる時はきっと自分のからだが大根の中のあるヴ?タミン?エッキスを要求しているのであろう。その時われわれは何も大根を食うことの必然性を証明した後でなければそれを食っていけないわけのものではない。また友人の,が大根を食ってよろずの病を癒(い)やし百年の寿を保つとしても、自分がそのまねをして成効するという保証はついていない。ある本を読んで興味を刺激されるのは何かしらそうなるべき必然な理由が自分の意識の水平面以下に潜在している証拠だと思われる。それをわれわれの意識の表層だけに組み立てた浅はかな理論や、人からの入れ知恵にこだわって無理に押えつけねじ向ける必要はないように思われる。人々の頭脳の現在はその人々の過去の履歴の函数(かんすう)である。それである人がある時に,という本に興味を感じて次に,に引きつけられるということが一見いかに不合理で偶然的に見えても、それにはやはりそうなるべきはずの理由が内在しているであろう。ただそれを正当に認識するには、ちょうど精神の大家がわれわれの夢の分析判断を試みるよりもいっそう深刻な分析と総合の能力を要求するであろう。 それだから、ある時にちっとも興味のなかった書物をちがった時に読んでみると非常な興味を覚えることも珍しくない。子供の時にきらいであった塩辛(しおから)が年取ってから好きになったといって、別に子供の時代の自分に義理を立てて塩辛を割愛するにも及ばないであろう。 なんべん読んでもおもしろく、読めば読むほどおもしろみの深入りする書物もある。それは作ったもの、こしらえたものにはまれで、生きたドキューメントというような種類のものに多いのはむしろ当然のことであろう。 二、三ページ読んだきりで投げ出したり、またページを繰ってさし絵を見ただけの本でも、ずっと後になって意外に役に立つ場合もある。若い時分には、読みだした本をおしまいまで読まないのが悪事であるような気がしたのであるが、今では読みたくない本を無理 に読むことは第一できないしまた読むほうが悪いような気がする。時には小説などを終わりのほうから逆にはじめのほうへ読むのもおもしろい、そうしていけない理由もない。活動のフ?ルムの逆転をしてはいけない事はないと同じである。 いろいろな書物を遠慮なくかじるほうがいいかもしれない。宅(うち)の花壇へいろいろの草花の種をまいてみるようなものである。そのうちで地味に適応したものが栄えて花実を結ぶであろう。人にすすめられた種だけをまいて、育たないはずのものを育てる努力にひと春を浪費しなくてもよさそうに思われる。それかといって一度育たなかった種は永久に育たぬときめることもない。前年に植えたもののいかんによって次の年に適当なものの種類はおのずから変わることもありうるのである。 健康である限りわれわれの食物はわれわれが選べばよいが、病気のときは医者の薬も必要かもしれない。しかし薬などのまずになおる人もあり薬をのんでも死ぬ人もある。書物についても同じことがいわれはしないか。 クリスマスの用意に鵞鳥(がちょう)をつかまえてひざの間にはさんで首っ玉をつかまえて無理に開かせた嘴(くちばし)の中へ五穀をぎゅうぎゅう詰め込む。これは飼養者の立場である。鵞鳥の立場を問題にする人があらばそれは天下の嘲笑(ちょうしょう)を買うに過ぎないであろう。鵞鳥は商品であるからである。人間もまた商品でありうる。その場合にはいやがる書物をぎゅうぎゅう詰め込むのもまたやむを得ないことであろう。そういう場合にこの飼料となる書籍がいっそう完全なる商品として大量的に生産されるのもまた自然の成りゆきと見るべきであろうか。 日本では外国の書物を手に入れるのがなかなか不便である。書店に注文すると二か月以上もかかる。そうして注文部と小売部と連絡がないためか、店の陳列棚(ちんれつだな)にそれが現存していても注文した分が着荷しなければ送ってくれなかったりする。頼んだつもりのが頼んだことになっていなかったりすることもある。雑誌のバックナンバーなど注文すると大概絶版だと断わって来るがラ?プチヒの本屋に頼むとたいていはじきに捜し出してくれるのである。天下の愚書でも売れる本はいつでも在庫品があり、売れない本はめったにない。これも書物が何々株式会社の「商品」であるとすればもとより当然のことである。それで自然に起こる要求は、そういう商品としてでない書籍の供給所を国家政府で経営して大概の本がいつでもすぐに手に入れられるようにしてもらうことはできないかということである。もっともこうなると自然に書物の種類にある限定を生じるに相違ないが、それでもかまわないと思うのである。少なくも科学や技術方面の書物だけでもさし当たってそうしてほしいと思う。国立図書館といったようなものと少なくも同等な機関として必要なものでありはしないか、こういう虫のいい空想も起こるくらいに不便を感じる場合が多いのである。 若いおそらく新参らしい店員にある書物があるかと聞くと、ないと答える。見るとちゃんと眼前の棚(たな)にその本が収まっている事がある。そういうときにわれわれははなはださびしい気持ちを味わう。商人が自分の商品に興味と熱を失う時代は、やがて官吏が職務を忘却し、学者が学問に倦怠(けんたい)し、職人が仕事をごまかす時代でありはしないかという気がすることもある。しかし考巧忠実な店員に接し掌(たなごころ)をさすように求める品物に関する光明を授けられると悲観が楽観に早変わりをする。現代の日本がやはりたのもしく見えて来ると同時に眼前の書籍を知らぬ小店員を気の毒に思うのである。 ド?ツのある書店に或(あ)る書物を注文したらまもなく手紙をよこして、その本は?メリカの某博物館で出版した非売品であるが、御希望ゆえさし上げるように同博物館へ掛け合ってやったからまもなく届くであろうと通知して来た。そうしてまもなくそれが手も とに届いたのであった。ありがたくもあればまたド?ツ人は恐ろしいとも思った。これが日本の書店だと三月も待った後に御注文の書籍は非売品の由につきさよう御承知くだされたしという一枚のはがきを受け取るのではなかったかと想像する。間違ったらゆるしてもらいたい。そう想像させるだけの因縁はあるのである。 書店にはなるべく借金をたくさんにこしらえるほうがいいという話を聞いて感心したことがある。正直に月々ちゃんと払いをすませるような顧客は、考えてみると本屋でもてなくてもよいわけであった。それでバックナンバーでも注文する時はその前に少なくも五六百円の借金をこしらえておくほうが有効であるかもしれない。これは近ごろの発見であるような気がした。 将来書物がいっさい不用になる時代が来るであろうか。英国の空想小説家は何百年間眠り続けた後に目をさました男の体験を描いているうちにその時代のラ?ブラリーの事を述べている。すなわち、書物の代わりに活動のフ?ルムの巻物のようなものができていて文字を読まなくても万事がことごとくわかることになっている。しかしこれは少し書物というものの本質を誤解した見当ちがいの空想であると思われる。 それにしても映画フ?ルムがだんだんに書物の領分を侵略して来る事はたしかである。おそらく近い将来においていろいろのフ?ルムが書店の商品の一部となって出現するときが来るのではないか。もしも安直なトーキーの器械やフ?ルムが書店に出るようになれば教育器械としてのプロフェッサーなどはだいぶ暇になることであろう。 今からでも大書店で十六ミリフ?ルムを売り出してもよくはないか。そうして小さな試写室を設けて客足をひくのも一案ではないかと思われるのである。近ごろ写真ばかりの本のはやるのはもうこの方向への第一歩とも見られる。 読みたい本、読まなければならない本があまり多い。みんな読むには一生がいくつあっても足りない。また、もしかみんな読んだら頭はからっぽになるであろう。頭をからっぽにする最良法は読書だからである。それで日下部(くさかべ)氏のいわゆる少なく読む、その少数の書物にどうしたらめぐり会えるか。これも親のかたきのようなもので、私の尋ねる敵(かたき)と他の人の敵とは別人であるように私の書物は私が尋ねるよりほかに道はない。 ある天才生物学者があった。山を歩いていてすべってころんで尻(しり)もちをついた拍子に、一握りの草をつかんだと思ったら、その草はいまだかつて知られざる新種であった。そういう事がたびたびあったというのである。読書の上手(じょうず)な人にもどうもこれに類した不思議なことがありそうに思われる。のんきに書店の棚(たな)を見てあるくうちに時々気まぐれに手を延ばして引っぱりだす書物が偶然にもその人にとって最も必要な本であるというようなことになるのではないか。そういうぐあいに行けるものならさぞ都合がいいであろう。 一冊の書物を読むにしても、ページをパラパラと繰るうちに、自分の緊要なことだけがページから飛び出して目の中へ飛び込んでくれたら、いっそう都合がいいであろう。これはあまりに虫のよすぎる注文であるが、ある度までは練習によってそれに似たことはできるもののようである。実際何十巻ものエンチクロペデ?ーやハンドブックを通読できるわけのものではないのである。 間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてそうしてただ間違っていないというだけの事以外になんの取り柄もないと思われる本もある。これほど立派な材料をこれほど豊富に寄せ集めて、そうしてよくもこれほどまでにおもしろくなくつまらなく書いたものだと思う本もある。 翻訳書を見ていると時におもしろいことがある。訳文の意味がどうしてもわからない場 合に、それを一ぺん原語に直訳して考えてみるとなるほどと合点(がてん)が行って思わず笑い出すことがある。たとえば「礼服を着ないでサラダを出した」といったような種類のものである。 先端的なものの流行(はや)る世の中で古いものを読むのも気が変わってかえって新鮮味を感じるから不思議である。近ごろ「ダフニスとクロエ」の恋物語を読んでそういう気がするのであった。今のモボ、モガよりもはるかに先端的な恋をしているのである。?リストフ?ーネスの「雲」を読んで学者たちが蚤(のみ)の一躍は蚤の何歩に当たるかを論ずるところなどが、今の学者とちっとも変わらない生き写しであることをおもしろいと思うのであった。「六国史(りっこくし)」を読んでいると現代に起こっていると全く同じことがただ少しばかりちがった名前の着物を着て古い昔に起こっていたことを知ってあるいは悲観しあるいは楽観するのである。だんだん読んでいると、古い事ほど新しく、いちばん古いことが結局いちばん新しいような気がして来るのも、不思議である。古典が続々新版になる一方では新思想ものが露店からくずかごに移されて行くのも不思議である。 それにしても日々に増して行く書籍の将来はどうなるであろうか。毎日の新聞広告だけから推算しても一年間に現われる書物の数は数千あるいは万をもって数えるであろう。そうしてその増加率は年とともに増すとすれば遠からず地殻(ちかく)は書物の荷重に堪えかねて破壊し、大地震を起こして復讐(ふくしゅう)を企てるかもしれない。そういう際にはセリュローズばかりでできた書籍は哀れな末路を遂げて、かえって石に刻した楔形文字(くさびがたもじ)が生き残るかもしれない。そうでなくとも、また暴虐な征服者の一炬(いっきょ)によって灰にならなくとも、自然の誤りなき化学作用はいつかは確実に現在の書物のセリュローズをぼろぼろに分解してしまうであろう。 十年来むし込んでおいた和本を取り出してみたら全部が虫のコロニーとなって無数のトンネルが三次元的に貫通していた。はたき集めた虫を庭へほうり出すとすずめが来て食ってしまった。書物を読んで利口になるものなら、このすずめもさだめて利口なすずめになったことであろう。 (昭和七年一月、東京日日新聞) 花物語 寺田寅彦 一 昼顔 いくつぐらいの時であったかたしかには覚えぬが、自分が小さい時の事である。 宅(うち)の前を流れている濁った堀川(ほりかわ)に沿うて半町ぐらい上ると川は左に折れて旧城のすその茂みに分け入る。その城に向こうたこちらの岸に広いあき地があった。維新前には藩の調練場であったのが、そのころは県庁の所属になったままで荒れ地になっていた。一面の砂地に雑草が所まだらにおい茂りところどころ昼顔が咲いていた。近辺の子供はここをいい遊び場所にして柵(さく)の破れから出入りしていたがとがめる者もなかった。夏の夕方はめいめいに長い竹ざおを肩にしてあき地へ出かける。どこからともなくたくさんの蝙蝠(こうもり)が蚊を食いに出て、空を低く飛びかわすのを、竹ざおを振るう てはたたき落とすのである。風のないけむったような宵闇(よいやみ)に、蝙蝠を呼ぶ声が対岸の城の石垣(いしがき)に反響して暗い川上に消えて行く。「蝙蝠来い。水飲ましょ。そっちの水にがいぞ」とあちらこちらに声がして時々竹ざおの空(くう)を切る力ない音がヒューと鳴っている。にぎやかなようで言い知らぬさびしさがこもっている。蝙蝠の出さかるのは宵の口で、おそくなるに従って一つ減り二つ減りどことなく消えるようにいなくなってしまう。すると子供らも散り散りに帰って行く。あとはしんとして死んだような空気が広場をとざしてしまうのである。いつか塒(ねぐら)に迷うた蝙蝠を追うて荒れ地のすみまで行ったが、ふと気がついて見るとあたりにはだれもいぬ。仲間も帰ったか声もせぬ。川向こうを見ると城の石垣(いしがき)の上に鬱然(うつぜん)と茂った榎(えのき)がやみの空に物恐ろしく広がって汀(みぎわ)の茂みはまっ黒に眠っている。足をあげると草の露がひやりとする。名状のできぬ暗い恐ろしい感じに襲われて夢中に駆け出して帰って来た事もあった。広場の片すみに高く小砂を盛り上げた土手のようなものがあった。自分らはこれを天文台と名づけていたが、実は昔の射的場の玉よけの跡であったので時々砂の中から長い鉛玉を掘り出す事があった。年上の子供はこの砂山によじ登ってはすべり落ちる。時々戦争ごっこもやった。賊軍が天文台の上に軍旗を守っていると官軍が攻め登る。自分もこの軍勢の中に加わるのであったが、どうしてもこの砂山の頂まで登る事ができなかった。いつもよく自分をいじめた年上の者らは苦もなく駆け上がって上から弱虫とあざける。「早く登って来い、ここから東京が見えるよ」などと言って笑った。くやしいので懸命に登りかけると、砂は足もとからくずれ、力草と頼む昼顔はもろくちぎれてすべりおちる。砂山の上から賊軍が手を打って笑うた。しかしどうしても登りたいという一念は幼い胸に巣をくうた。ある時は夢にこの天文台に登りかけてどうしても登れず、もがいて泣き、母に起こされ蒲団(ふとん)の上にすわってまだ泣いた事さえあった。「お前はまだ小さいから登れないが、今に大きくなったら登れますよ」と母が慰めてくれた。その後自分の一家は国を離れて都へ出た。執着のない子供心には故郷の事は次第に消えて昼顔の咲く天文台もただ夢のような影をとどめるばかりであった。二十年後の今日故郷へ帰って見るとこの広場には町の小学校が立派に立っている。大きくなったら登れると思った天文台の砂山は取りくずされてもう影もない。ただ昔のままをとどめてなつかしいのは放課後の庭に遊んでいる子供らの勇ましさと、柵(さく)の根もとにかれがれに咲いた昼顔の花である。 二 月見草 高等学校の寄宿舎にはいった夏の末の事である。明けやすいというのは寄宿舎の二階に寝て始めて覚えた言葉である。寝相の悪い隣の男に踏みつけられて目をさますと、時計は四時過ぎたばかりだのに、夜はしらしらと半分上げた寝室のガラス窓に明けかかって、さめ切らぬ目にはつり並べた蚊帳(かや)の新しいのや古い萌黄色(もえぎいろ)が夢のようである。窓の下框(したがまち)には扁柏(へんばく)の高いこずえが見えて、その上には今目ざめたような裏山がのぞいている。床はそのままに、そっと抜け出して運動場へおりると、広い芝生(しばふ)は露を浴びて、素足につっかけた兵隊靴(へいたいぐつ)をぬらす。ばったが驚いて飛び出す羽音も快い。芝原のまわりは小松原が取り巻いて、すみのところどころには月見草が咲き乱れていた。その中を踏み散らして広い運動場を一回りするうちに、赤い日影が時計台を染めて賄所(まかないしょ)の井戸が威勢よくきしり始めるのであった。そのころある夜自分は妙な夢を見た。ちょうど運動場のようで、もっと広い草原の中をおぼろな月光を浴びて現(うつつ)ともなくさまようていた。淡い夜霧 が草の葉末におりて四方は薄絹に包まれたようである。どこともなく草花のような香がするが何のにおいとも知れぬ。足もとから四方にかけて一面に月見草の花が咲き連なっている。自分と並んで一人若い女が歩いているが、世の人と思われぬ青白い顔の輪郭に月の光を受けて黙って歩いている。 薄鼠色(うすねずみいろ)の着物の長くひいた裾(すそ)にはやはり月見草が美しく染め出されていた。どうしてこんな夢を見たものかそれは今考えてもわからぬ。夢がさめてみるとガラス窓がほのかに白んで、虫の音が聞こえていた。寝汗が出ていて胸がしぼるような心持ちであった。起きるともなく床を離れて運動場へおりて月見草の咲いているあたりをなんべんとなくあちこちと歩いた。その後も毎朝のように運動場へ出たが、これまでにここを歩いた時のような爽快(そうかい)な心持ちはしなくなった。むしろ非常にさびしい感じばかりして、そのころから自分は次第にわれとわが身を削るような、憂鬱(ゆううつ)な空想にふけるようになってしまった。自分が不治の病を得たのもこのころの事であった。 三 栗の花 三年の間下宿していた吉住(よしずみ)の家は黒髪山(くろかみやま)のふもともやや奥まった所である。家の後ろは狭い裏庭で、その上はもうすぐに崖(がけ)になって大木の茂りがおおい重なっている。傾く年の落ち葉木の実といっしょに鵯(ひよどり)の鳴き声も軒ばに降らせた。自分の借りていた離れから表の門への出入りにはぜひともこの裏庭を通らねばならぬ。庭に臨んだ座敷のはずれに三畳敷きばかりの突き出た小室(こべや)があって、しゃれた丸窓があった。ここは宿の娘の居間ときまっていて、丸窓の障子は夏も閉じられてあった。ちょうどこの部屋(へや)の真上に大きな栗(くり)の木があって、夏初めの試験前の調べが忙しくなるころになると、黄色い房紐(ふさひも)のような花を屋根から庭へ一面に降らせた。落ちた花は朽ち腐れて一種甘いような強い香気が小庭に満ちる。ここらに多い大きな蠅(はえ)が勢いのよい羽音を立ててこれに集まっている。力強い自然の旺盛(おうせい)な気が脳を襲うように思われた。この花の散る窓の内には内気な娘がたれこめて読み物や針仕事のけいこをしているのであった。自分がこの家にはじめて来たころはようよう十四五ぐらいで桃割れに結うた額髪をたらせていた。色の黒い、顔だちも美しいというのではないが目の涼しいどこかかわいげな子であった。主人夫婦の間には年とっても子が無いので、親類の子供をもらって育てていたのである。娘のほかに大きな三毛ねこがいるばかりでむしろさびしい家庭であった。自分はいつも無口な変人と思われていたくらいで、宿の者と親しいむだ話をする事もめったになければ、娘にもやさしい言葉をかけたこともなかった。毎日の食事時にはこの娘が駒下駄(こまげた)の音をさせて迎えに来る。土地のなまった言葉で「御飯おあがんなさいまっせ」と言い捨ててすたすた帰って行く。初めはほんの子供のように思っていたが一夏一夏帰省して来るごとに、どことなくおとなびて来るのが自分の目にもよく見えた。卒業試験の前のある日、灯(ひ)ともしごろ、復習にも飽きて離れの縁側へ出たら栗(くり)の花の香は慣れた身にもしむようであった。 主家(おもや)の前の植え込みの中に娘が白っぽい着物に赤い帯をしめてねこを抱いて立っていた。自分のほうを見ていつにない顔を赤くしたらしいのが薄暗い中にも自分にわかった。そしてまともにこっちを見つめて不思議な笑顔(えがお)をもらしたが、物に追われでもしたように座敷のほうに駆け込んで行った。その夏を限りに自分はこの土地を去って東京に出たが、翌年の夏初めごろほとんど忘れていた吉住(よしずみ)の家から手紙が届いた。娘が書いたものらしかった。年賀のほかにはたよりを聞かせた事もなかったが、どう思うたものか、こまごまとかの地の模様を知らせてよこした。自分の 元借りていた離れはその後だれも下宿していないそうである。東京という所はさだめてよい所であろう。一生に一度は行ってみたいというような事も書いてあった。別になんという事もないがどことなくなまめかしいのはやはり若い人の筆だからであろう。いちばんおしまいに栗(くり)の花も咲き候(そうろう)。やがて散り申し候とあった。名前は母親の名が書いてあった。 四 のうぜんかずら 小学時代にいちばんきらいな学科は算術であった。いつでも算術の点数が悪いので両親は心配して中学の先生を頼んで夏休み中先生の宅へ習いに行く事になった。 宅(うち)から先生の所までは四五町もある。 宅(うち)の裏門を出て小川に沿うて少し行くと村はずれへ出る、そこから先生の家の高い松が近辺の藁屋根(わらやね)や植え込みの上にそびえて見える。これにのうぜんかずらが下からすきまもなくからんで美しい。毎日昼前に母から注意されていやいやながら出て行く。裏の小川には美しい藻(も)が澄んだ水底にうねりを打って揺れている。その間を小鮒(こぶな)の群れが白い腹を光らせて時々通る。子供らが丸裸の背や胸に泥(どろ)を塗っては小川へはいってボチャボチャやっている。付け木の水車を仕掛けているのもあれば、盥船(たらいぶね)に乗って流れて行くのもある。自分はうらやましい心をおさえて川沿いの岸の草をむしりながら石盤をかかえて先生の家へ急ぐ。寒竹の生けがきをめぐらした冠木門(かぶきもん)をはいると、玄関のわきの坪には蓆(むしろ)を敷き並べた上によく繭を干してあった。玄関から案内を請うと色の黒い奥さんが出て来て「暑いのによう御精が出ますねえ」といって座敷へ導く。きれいに掃除(そうじ)の届いた庭に臨んだ縁側近く、低い机を出してくれる。先生が出て来て、黙って床の間の本棚(ほんだな)から算術の例題集を出してくれる。横に長い黄表紙で木版刷りの古い本であった。「甲乙二人の旅人あり、甲は一時間一里を歩み乙は一里半を歩む……」といったような題を読んでその意味を講義して聞かせて、これをやってごらんといわれる。先生は縁側へ出てあくびをしたり勝手のほうへ行って大きな声で奥さんと話をしたりしている。自分はその問題を前に置いて石盤の上で石筆をコツコツいわせて考える。座敷の縁側の軒下に投網(とあみ)がつり下げてあって、長押(なげし)のようなものに釣竿(つりざお)がたくさん掛けてある。何時間で乙の旅人が甲の旅人に追い着くかという事がどうしてもわからぬ、考えていると頭が熱くなる、汗がすわっている足ににじみ出て、着物のひっつくのが心持ちが悪い。頭をおさえて庭を見ると、笠松(かさまつ)の高い幹にはまっかなのうぜんの花が熱そうに咲いている。よい時分に先生が出て来て「どうだ、むつかしいか、ドレ」といって自分の前へすわる。ラシャ切れを丸めた石盤ふきですみからすみまで一度ふいてそろそろ丁寧に説明してくれる。時々わかったかわかったかと念をおして聞かれるが、おおかたそれがよくわからぬので妙に悲しかった。うつ向いていると水洟(みずばな)が自然にたれかかって来るのをじっとこらえている、いよいよ落ちそうになると思い切ってすすり上げる、これもつらかった。昼飯時が近くなるので、勝手のほうでは皿鉢(さらばち)の音がしたり、物を焼くにおいがしたりする。腹の減るのもつらかった。繰り返して教えてくれても、結局あまりよくはわからぬと見ると、先生も悲しそうな声を少し高くすることがあった。それがまた妙に悲しかった。「もうよろしい、またあしたおいで」と言われると一日の務めがともかくもすんだような気がして大急ぎで帰って来た。 宅(うち)では何も知らぬ母がいろいろ涼しいごちそうをこしらえて待っていて、汗だらけの顔を冷水で清め、ちやほやされるのがまた妙に悲しかった。 五 芭蕉の花 晴れ上がって急に暑くなった。朝から手紙を一通書いたばかりで何をする元気もない。なんべんも机の前へすわって見るが、じきに苦しくなってついねそべってしまう。時々涼しい風が来て軒のガラスの風鈴が鳴る。床の前には幌蚊帳(ほろがや)の中に俊坊が顔をまっかにして枕(まくら)をはずしてうつむきに寝ている。縁側へ出て見ると庭はもう半分陰になって、陰と日向(ひなた)の境を蟻(あり)がうろうろして出入りしている。このあいだ上田(うえだ)の家からもらって来たダーリ?はどうしたものか少し芽を出しかけたままで大きくならぬ。戸袋の前に大きな広葉を伸ばした芭蕉(ばしょう)の中の一株にはことし花が咲いた。大きな厚い花弁が三つ四つ開いたばかりで、とうとう開ききらずに朽ちてしまうのか、もう少ししなびかかったようである。 蟻(あり)が二三匹たかっている。俊坊が急に泣き出したからのぞいて見ると蚊帳(かや)の中にすわって手足を投げ出して泣いている。勝手から妻が飛んでくる。坊は牛乳のびんを、投げ出した膝の上で自分にかかえて乳首から息もつかずごくごく飲む。涙でくしゃくしゃになった目で両親の顔を等分にながめながら飲んでいる。飲んでしまうとまた思い出したように泣き出す。まだ目がさめきらぬと見える。妻は俊坊をおぶって縁側に立つ。「芭蕉(ばしょう)の花、坊や芭蕉の花が咲きましたよ、それ、大きな花でしょう、実がなりますよ、あの実は食べられないかしら。」坊は泣きやんで芭蕉の花をさして「モヽモヽ」という。「芭蕉は花が咲くとそれきり枯れてしまうっておとうちゃま、ほんとう,」「そうよ、だが人間は花が咲かないでも死んでしまうね」といったら妻は「マ?」といったきり背をゆすぶっている。坊がまねをして「マ?」という。二人で笑ったら坊もいっしょに笑った。そしてまた芭蕉の花をさして「モヽモヽ」といった。 六 野ばら 夏の山路を旅した時の事である。峠を越してから急に風が絶えて蒸し暑くなった。狭い谷間に沿うて段々に並んだ山田の縁を縫う小道には、とんぼの羽根がぎらぎらして、時々蛇(へび)が行く手からはい出す。谷をおおう黒ずんだ青空にはおりおり白雲が通り過ぎるが、それはただあちこちの峰に藍色(あいいろ)の影を引いて通るばかりである。 咽喉(のど)がかわいて堪え難い。道ばたの田の縁に小みぞが流れているが、金気を帯びた水の面は青い皮を張って鈍い光を照り返している。行くうちに、片側の茂みの奥から道を横切って田に落つる清水(しみず)の細い流れを見つけた時はわけもなくうれしかった。すぐに草鞋(わらじ)のまま足を浸したら涼しさが身にしみた。道のわきに少し分け入ると、ここだけは特別に樫(かし)や楢(なら)がこんもりと黒く茂っている。 苔(こけ)は湿って蟹(かに)が這(ほ)うている。 崖(がけ)からしみ出る水は美しい羊歯(しだ)の葉末からしたたって下の岩のくぼみにたまり、余った水はあふれて苔の下をくぐって流れる。小さい竹柄杓(たけびしゃく)が浮いたままにしずくに打たれている。自分は柄杓にかじりつくようにして、うまい冷たいはらわたにしむ水を味おうた。少し離れた崖の下に一株の大きな野ばらがあって純白な花が咲き乱れている。自分は近寄って強いかおりをかいで小さい枝を折り取った。人のけはいがするのでふと見ると、今までちっとも気がつかなかったが、茂みの陰に柴刈(しばか)りの女が一人休んでいた。背負うた柴を崖(がけ)にもたせて脚絆(きゃはん)の足を投げ出したままじっとこっちを見ていた。あまり思いがけなかったので驚いて見返した。継ぎはぎの着物は裾短(すそみじ)かで繩(なわ)の帯をしめている。白い手ぬぐいを眉深(まぶか)にかぶった下から黒髪が額にたれ かかっている。思いもかけず美しい顔であった。都では見ることのできぬ健全な顔色は少し日に焼けていっそう美しい。人に臆(おく)せぬ黒いひとみでまともに見られた時、自分はなんだかとがめられたような気がした。思わずいくじのないお辞儀を一つしてここを出た。 蝉(せみ)が鳴いて蒸し暑さはいっそうはげしい。今折って来た野ばらをかぎながら二三町行くと、向こうから柴を負うた若者が一人上って来た。身のたけに余る柴を負うてのそりのそりあるいて来た。たくましい赤黒い顔に鉢巻(はちまき)をきつくしめて、腰にはとぎすました鎌(かま)が光っている。行き違う時に「どうもお邪魔さまで」といって自分の顔をちらと見た。しばらくして振り返って見たら、若者はもう清水(しみず)のへん近く上がっていたが、向こうでも振りかえってこっちを見た。自分はなんというわけなしに手に持っていた野ばらを道ばたに捨てて行く手の清水へと急いで歩いた。 七 常山の花 まだ小学校に通(かよ)ったころ、昆虫(こんちゅう)を集める事が友だち仲間ではやった。自分も母にねだって蚊帳(かや)の破れたので捕虫網を作ってもらって、土用の日盛りにも恐れず、これを肩にかけて毎日のように虫捕(むしと)りに出かけた。 蝶蛾(ちょうが)や甲虫(かぶとむし)類のいちばんたくさんに棲(す)んでいる城山(しろやま)の中をあちこちと長い日を暮らした。二の丸三の丸の草原には珍しい蝶やばったがおびただしい。少し茂みに入ると樹木の幹にさまざまの甲虫が見つかる。玉虫、こがね虫、米つき虫の種類がかずかずいた。強い草木の香にむせながら、胸をおどらせながらこんな虫をねらって歩いた。 捕(と)って来た虫は熱湯や樟脳(しょうのう)で殺して菓子折りの標本箱へきれいに並べた。そうしてこの箱の数の増すのが楽しみであった。虫捕りから帰って来ると、からだは汗を浴びたようになり、顔は火のようであった。どうしてあんなに虫好きであったろうと母が今でも昔話の一つに数える。年を経ておもしろい事にも出会うたが、あのころ珍しい虫を見つけて捕えた時のような鋭い喜びはまれである。今でも城山の奥の茂みに蒸された朽ち木の香を思い出す事ができるのである。いつか城山のずっとすそのお堀(ほり)に臨んだ暗い茂みにはいったら、一株の大きな常山木(じょうざんぼく)があって桃色がかった花がこずえを一面におおうていた。散った花は風にふかれて、みぎわに朽ち沈んだ泥船(どろぶね)に美しく散らばっていた。この木の幹はところどころ虫の食い入った穴があって、穴の口には細かい木くずが虫の糞(ふん)と共にこぼれかかって一種の臭気が鼻を襲うた。木の幹の高い所に、大きなみごとなかぶと虫がいかめしい角(つの)を立てて止まっているのを見つけた時はうれしかった。自分の標本箱にはまだかぶと虫のよいのが一つもなかったので、胸をとどろかして網を上げた。少し網が届きかねたがようよう首尾よく捕(と)れたので、腰につけていた虫かごに急いで入れて、包みきれぬ喜びをいだいて森を出た。三の丸の石段の下まで来ると、向こうから美しい蝙蝠傘(こうもりがさ)をさした女が子供の手を引いて木陰を伝い伝い来るのに会うた。町の良い家の妻女であったろう。傘を持った手に薬びんをさげて片手は子供の手を引いて来る。子供は大きな新しい麦藁帽(むぎわらぼう)の紐(ひも)をかわいい頤(あご)にかけてまっ白な洋服のようなものを着ていた。自分のさげていた虫かごを見つけると母親の手を離れてのぞきに来たが、目を丸くして母親のほうへ駆けて行って、袖(そで)をぐいぐい引っぱっていると思うと、また虫かごをのぞきに来た。母親は早くおいでよと呼ぶけれども、なかなか自分のそばを離れぬ。しいて連れて行こうとすると道のまん中にしゃがんでしまってとうとう泣き出した。母親は途方にくれながらしかっている。自分はその時虫かごのふたをあけてかぶと虫を引き出し道ばたの相撲取草(すもうとりぐさ)を一本抜いて虫の 角(つの)をしっかり縛った。そして、さあといって子供に渡した。子供は泣きやんできまりの悪いようにうれしい顔をする。母親は驚いて子供をしかりながらも礼をいうた。自分はなんだかきまりが悪くなったから、黙ってからになった虫かごを打ちふりながら駆け出したが、うれしいような、惜しいような、かつて覚えない心持ちがした。その後たびたび同じ常山木(じょうざんぼく)の下へも行ったが、あの時のようなみごとなかぶと虫はもう見つからなかった。またあの時の親子にも再び会わなかった。 八 りんどう 同じ級に藤野(ふじの)というのがいた。夏期のエキスカーションに演習林へ行く時によく自分と同じ組になって測量などやって歩いた。見ても病身らしい、背のひょろ長い、そしてからだのわりに頭の小さい、いつも前かがみになって歩く男であった。無口で始終何かぼんやり考え込んでいるようなふうで、他の一般に快活な連中からはあまり歓迎されぬほうであった。しかしごく気の小さい好人物で柔和な目にはどこやら人を引く力はあった。自分はこの男の顔を見ると、どういうわけか気の毒なというような心持ちがした。この男の過去や現在の境遇などについては当人も別に話した事はなし、他からも聞いた事はなかったが、何となしに不幸な人という感じが、初めて会うた時から胸に刻みつけられてしまった。ある夏演習林へ林道敷設の実習に行った時の事である。藤野のほかに三四人が一組になって山小屋に二週間起臥(きが)を共にした。山小屋といっても、山の崖(がけ)に斜めに丸太を横に立てかけ、その上を蓆(むしろ)や杉葉(すぎば)でおおうた下に板を敷いて、めいめいに毛布にくるまってごろごろ寝るのである。小屋のすみに石を集めた竈(かまど)を築いて、ここで木こりの人足が飯をたいてくれる。一日の仕事から帰って来て、小屋から立ちのぼる青い煙を岨道(そばみち)から見上げるのは愉快であった。こんな小屋でも宅(うち)へ帰ったような心持ちになる。夜になると天井の丸太からつるしたランプの光に集まる虫を追いながら、必要な計算や製図をしたり、時にはビスケットの罐(かん)をまん中に、みんなが腹ばいになってむだ話をする事もある。いつもよく学校のうわさや教授たちのまねが出てにぎやかに笑うが、またおりおり若やいだなまめかしいような話の出る事もあった。こんな時藤野は人の話を聞かぬでもなく聞くでもなく、何か不安の色を浮かべて考えているようであるが、時々かくしから手慣れた手帳を出してらく書きをしている。一夜夜中に目がさめたら山はしんとして月の光が竈の所にさし込んでいた。小屋の外を歩く足音がするから、蓆のすきからのぞいて見ると、青い月光の下で藤野がぶらりぶらり歩いていた。毎朝起きるときまりきった味噌汁(みそしる)をぶっかけた飯を食ってセオドラ?トやポールをかついで出かける。目的の場所へ着くと器械をすえてかわるがわる観測を始める。藤野は他人の番の時には切り株に腰をかけたり草の上にねころんだりしていつものように考え込んでいるが、いよいよ自分の番になると急いで出て来て器械をのぞき、熱心に度盛りを読んでいるが、どういうものか時々とんでもない読み違いをする。ノートを控えている他の仲間から、それではあんまりちがうようだがと注意されて読み違えたことに気がつくと、顔をまっかにして非常に恥じておどおどする。どうも失敬した失敬したと言い訳をする。なるべく藤野には読ませぬようにしたいとだれも思ったろうが、そういうわけにも行かぬのでやはり順番で読ませる。すると五回に一度は何かしら間違えてそのたびに非常に恥じて悲しい顔をする。そしてズボンのひざをかかえていっそう考え込むのである。こんなふうで二週間もおおかた過ぎ、もう引き上げて帰ろうという少し前であったろう。一日大雨がふって霧が渦巻(うずま)き、仕事も何もできないので、みんな小屋にこもって寝ていた時、藤野の手帳が自分のそばに落ちていたのをなん の気なしに取り上げて開いて見たら、山におびただしいりんどうの花が一つしおりにはさんであって、いろんならく書きがしてあった。中に銀杏(いちょう)がえしの女の頭がいくつもあって、それから Fate という字がいろいろの書体でたくさん書き散らしてあった。仰向きに寝ていた藤野が起き上がってそれを見ると、青い顔をしたが何も言わなかった。 九 楝の花 一夏、脳が悪くて田舎(いなか)の親類のやっかいになって一月ぐらい遊んでいた。家の前は清い小みぞが音を立てて流れている。狭い村道の向こう側は一面の青田で向こうには徳川以前の小さい城跡の丘が見える。古風な屋根門のすぐわきに大きな楝(おうち)の木が茂った枝を広げて、日盛りの道に涼しい陰をこしらえていた。通りがかりの行商人などがよく門前で荷をおろし、門流れで顔を洗うたぬれ手ぬぐいを口にくわえて涼んでいる事がある。一日暑い盛りに門へ出たら、木陰で桶屋(おけや)が釣瓶(つるべ)や桶のたがをはめていた。きれいに掃いた道に青竹の削りくずや鉋(かんな)くずが散らばって楝(おうち)の花がこぼれている。桶屋は黒い痘痕(とうこん)のある一癖ありそうな男である。手ぬぐい地の肌着(はだぎ)から黒い胸毛を現わしてたくましい腕に木槌(こづち)をふるうている。槌の音が向こうの丘に反響して静かな村里に響き渡る。稲田には強烈な日光がまぶしいようにさして、田んぼは暑さに眠っているように見える。そこへ羅宇屋(らうや)が一人来て桶屋(おけや)のそばへ荷をおろす。古いそして小さすぎて胸の合わぬ小倉(こくら)の洋服に、腰から下は股引脚絆(ももひききゃはん)で、素足に草鞋(わらじ)をはいている。古い冬の中折れを眉深(まぶか)に着ているが、頭はきれいに剃(そ)った坊主らしい。「きょうも松魚(かつお)が捕(と)れたのう」と羅宇屋が話しかける。桶屋は「捕れたかい、このごろはなんぼ捕れても、みんな蒸気で上(かみ)へ積み出すからこちらの口へははいらんわい」とやけに桶をポンポンたたく。門の屋根裏に巣をしているつばめが田んぼから帰って来てまた出て行くのを、羅宇屋は煙管(きせる)をくわえて感心したようにながめていたが「鳥でもつばめぐらい感心な鳥はまずないね」と前置きしてこんな話を始めた。村のある旧家につばめが昔から巣をくうていたが、一日家の主人がつばめに「お前には長年うちで宿を貸しているが、時たまにはみやげの一つも持って来たらどうだ」と戯れに言った事があった。そしたら翌年つばめが帰って来た時、ちょうど主人が飯を食っていた膳(ぜん)の上へ飛んで来て小さな木の実を一粒落とした。主人はなんの気なしにそれを庭へほうり出したら、まもなくそこから奇妙な木がはえた。だれも見た事もなければ聞いた事もない不思議な木であった。その木が生長すると枝も葉も一面に気味の悪い毛虫がついて、見るもあさましいようであったので主人はこの木を引き抜いて風呂(ふろ)のたきつけに切ってしもうた。その時ちょうど町の医者が通りかかって、それは惜しい事をしたと嘆息する。どうしてかと聞いてみると、それはわが国では得がたい麝香(じゃこう)というものであったそうな。ここまで一人でしゃべってしまってもっともらしい顔をして煙を輪に吹く。ポンポン桶をたたきながら黙って聞いていた桶屋(おけや)はこの時ちょっと自分のほうを見て変な目つきをしたが、「そしてその麝香(じゃこう)というのはその木の事かい、それともまた毛虫かい」と聞く、「ウーン、そりゃあその、麝香にもまたいろいろ種類があるそうでのう」と、どちらともわからぬ事をいう。桶屋はしいて聞こうともせぬ。桶をたたく音は向こうの丘に反響して楝(おうち)の花がほろほろこぼれる。 (明治四十一年十月、ホトトギス) 笑い 寺田寅彦 子供の時分から病弱であった私は、物心がついてから以来ほとんど医者にかかり通しにかかっていたような漠然(ばくぜん)とした記憶がある。幸いに命を取り止めて来た今日でもやはり断えず何かしら病気をもっていない時はないように思われる。簡単なラテン語の名前のつくような病気にはかかっていない時でも、なんとなしに自分のからだをやっかいな荷物に感じない日はまれである。ただ習慣のおかげでそれのはっきりした自覚を引きずり歩かないというだけである。それで自分は、ちょうど色盲の人に赤緑の色の観念が欠けているように、健康なからだに普通な安易な心持ちを思料する事ができないのではないかと思う事もある。もっとも健康な人は、そういういい心持ちが常態であってみれば、病後ででもない限りやはりそれを安易とも幸福とも自覚しないだろう。すると結局日常生活の仕事の上には、自分のようなものも健全な人も、からだの自覚から受ける影響はたいしたものではないかもしれないが、しかしこれほど根本的な肉体的の差別がどこかに発露しないはずはない。 それで、これから告白しようとする私の奇妙な経験がどこまで正常(ノルマル)な健康を保有している幸福な人たちに共通で、どこからが私のようなものに限っての病的な現象に連関しているかは、遺憾ながら私自身にもよくわからない。この一編を書くようになった動機はむしろこの点に対する私の不可解な疑念であると言ってもいい。 私は子供の時分から、医者の診察を受けている場合にきっと笑いたくなるという妙な癖がある。この癖は大きくなってもなかなか直らなくて、今でもその痕跡(こんせき)だけはまだ残っている。 病気といっても四十度も熱があったり、あるいはからだのどこかに堪え難い痛みがあったりするような場合はさすがにそんな余裕はないが、病気の自覚症状がそれほど強烈でなくて、起き上がってすわって診察してもらうくらいの時にこの不思議な現象が起こるのである。 まず医者が脈をおさえて時計を読んでいる時分から、そろそろこの笑いの前兆のような妙な心持ちがからだのどこかから起こって来る。それは決して普通のおかしいというような感じではない。自分のさし延べている手をそのままの位置に保とうという意識に随伴して一種の緊張した感じが起こると同時にこれに比例して、からだのどこかに妙なくすぐったいようなたよりないような感覚が起こって、それがだんだんからだじゅうを彷徨(ほうこう)し始めるのである、言わばかろうじて平衡を保っている不安定な機械(メカニズム)のどこかに少しのよけいな重量でもかかると、そのために機械全体のつりあいがとれなくなって、あっちこっちがぐらついて来るようなものかもしれない。実際からだが妙にぐらぐらしたり、それをおさえようとすると肝心の手のほうががくりと動いたりするのである。 弱い神経(ウ?ークナーヴ)と言ってしまえばそれまでの事かもしれないが、問題はこれが「笑い」の前奏として起こる点にある。 舌を出したり咽喉仏(のどぼとけ)を引っ込めて「あゝ」という気のきかない声を出したり、まぶたをひっくり返されたりするようななんでもない事が、ちょうど平衡を失って ゆるんでいるきわどいすきまへ出くわすためだかどうか、よくはわからないが、場合によってはこんな事でも、とにかくすでに「笑い」のほうに向かって、倒れかかっている気分に軽い衝撃(?ンパルス)を与えるような効果はあるらしい。 いよいよ胸をくつろげて打診から聴診と進んで来るに従って、からだじゅうを駆けめぐっていた力無いたよりないくすぐったいような感じがいっそう強く鮮明になって来る。そうして深呼吸をしようとして胸いっぱいに空気を吸い込んだ時に最高頂に達して、それが息を吹き出すとともに一時に爆発する。するとそれがちゃんと立派な「笑い」になって現われるのである。 何もそこに笑うべき正当の対象のないのに笑うというのが不合理な事であり、医者に対して失礼はもちろんはなはだ恥ずべき事だという事は子供の私にもよくわかっていた。そばにすわっている両親の手前も気の毒千万であった。それでなるべく我慢しようと思って、くちびるを強くかんだり、こっそりひざをつねったりするが、目から涙は出てもこの「理由なき笑い」はなかなかそれぐらいの事では止まらなかった。そのような努力の結果はかえって防ごうとする感じを強めるような効果があった。ところが医者のほうは案外いつも平気でいっしょに笑ってくれたりする。そうすると、もう手離しで笑ってもいいという安心を感じると同時に、笑いたい感覚はすうと一時に消滅してしまうのである。 胸部の皮膚にさわられるのが直接にくすぐったい感覚を起こさせるので、それが原因かと思われない事もないが、実はそうではなくて、それよりはむしろ息を吸い込もうとする努力と密接な関係のある事が自分でよくわかる。腹部をもんだりする時には実際かえってそう笑いたくならなかった。 かかりつけの医者に診(み)てもらう場合には、それほど困らなかったが、始めての医者などだと、もう見てもらう前からこれが苦になっていた。気にすればするほどかえって結果は悪かった。そばに母でもいてこの癖をなるべく早く説明してもらうよりほかはなかった。それを説明してもらいさえすれば、もう決して笑わなくてもいい事になるのであった。 「男というものはそうむやみになんでもない事を笑うものではない」というような事を常に父から教えられ自分でもそう思っていた。いわんやなんら笑うべき正当の理由のないのに笑うという事は許すべからざる不倫な事としか思われなかった。それで、ある時だれか他家のおばさんが「それはどこかおなかに弱い所のあるせいでしょう」と言ってくれた時には、何かなしに一種のありがたい福音を聞くような気がした。なんだか自分の意志によって制すべくして制しきれない心の罪が、どうにもならない肉体の罪に帰せられたように思われた。 いわゆる笑うべき事がない時に笑い出すのは医者に診(み)てもらう場合に限らなかった。 いちばん困るのは親類などへ行って改まった挨拶(あいさつ)をしなければならない時であった。ことに先方に不幸でもあった場合に、向こうで述べるべき悔やみの言葉を宅(うち)から教わって暗記して行って、それをそのとおりに言おうとする時に、突然例の不思議な笑いが飛び出してくるのである。その時の苦しさは今でも忘れる事ができない。なかなかおかしいどころではなかった。 しかしそういう場合に私に応接した多くのおばさんたちは、子供の私がわけもなく笑い出してもそんな事はてんで問題にもならないようであった。かえって向こうでもにこにこして「たいへん大きくなった」などという。そんな事を言われてみると、もう少しも笑わなくともいいようになる。そうして同時になんとも言えない情けない自卑(ヒューミリエーション)の念に襲われるのが常であった。 こういう「笑い」の癖は中学時代になってもなかなか直らなかった。そしてそれがしばしば自分を苦しめ恥ずかしめた。おごそかな神祭の席にすわっている時、まじめな音楽の演奏を聞いている時、長上の訓諭を聴聞(ちょうもん)する時など、すべて改まってまじめな心持ちになってからだをちゃんと緊張しようとする時にきっとこれに襲われ悩まされたのである。床屋で顔に剃刀(かみそり)をあてられる時もこれと似た場合で、この場合には危険の感じが笑いを誘発した。 年を取るに従って多少自分の内部の心理現象を内察する事を覚えてからはこの特殊な笑いの分析的の解説を求めようとした事は幾度あったかわからない。しかしそれは自分などの力にはとても合わないむつかしい問題であった。結局自分の神経の働き方にどこか異常な欠陥があるのであろうという、はなはだ不愉快な心細い結論に達するのが常であった。 いったい私にとっては笑うべき事と笑う事とはどうもうまく一致しなかった。たとえば村の名物になっている痴呆(ちほう)の男が往来でいろいろのおかしい芸当や身ぶりをするのを見ていても、少しも笑いたくならなかった。むしろ不快な悲しいような心持ちがした。酒宴の席などでいろいろ滑稽(こっけい)な隠し芸などをやって笑い興じているのを見ると、むしろ恐ろしいような物すごいような気がするばかりで、とてもいっしょになって笑う気になれなかった。もっともこれは単にペシミストの傾向と言ってしまえば、別に問題にはならないかもしれないが。 そうかと思うと、たとえばはげしい颶風(ぐふう)があれている最中に、雨戸を少しあけて、物恐ろしい空いっぱいに樹幹の揺れ動き枝葉のちぎれ飛ぶ光景を見ている時、突然に笑いが込みあげて来る。そしてあらしの物音の中に流れ込む自分の笑声をきわめて自然なもののように感ずるのであった。 あるいは門前の川が汎濫(はんらん)して道路を浸している時に、ひざまでも没する水の中をわたり歩いていると、水の冷たさが腿(もも)から腹にしみ渡って来る、そうしてからだじゅうがぞくぞくして来ると同時にまた例の笑いが突発する。 いずれの場合にも、普通いかなる意味においても決して笑うべき理由は見つからないが、それにもかかわらず笑いの現象が現われ来るのをいかんともする事ができなかった。 もう一つの場合は、人から何か自分に不利益な誤解を受けて、それに対する弁明をしなければならない時に、その弁明が無効である事がだんだんにわかって来るとする、そういう困難な場合に不意に例の笑いが呼び出される。これは最もぐあいの悪い場合であるが、それを意志の力で食い止める事は、とても他人に想像されまいと思われるほど私には困難である。 この種の不合理な笑いはすべて自分だけに特有な病的の精神現象ではないかと思っていたが、その後だんだんに気をつけて見ると、必ずしも自分だけには限らない事がわかって来た。子供の時分に不幸見舞いに行って笑い出した事や、本膳(ほんぜん)をふるまわれて食っている間にふき出したような話をする人も二人や三人はあった。 ある時、火事で焼け出されて、神社の森の中に持ち出した家財を番している中年の婦人が、見舞いの人々と話しながら、腹の底からさもおかしそうに笑いこけているのを、相手のほうでは驚き怪しむような表情をして見つめているのを見かけた事もある。 戦争の惨劇が頂点に達した時に突然笑いに襲われるという異常な現象もどこかで読んだ。 これらはむしろ狂に近い例かもしれないがしかしともかくもこんないろいろの事実を総合して考えると、一般に「笑い」という現象の機能や本質について何かしらあるヒントを得るように思う。 笑いの現象を生理的に見ると、ある神経の刺激によって腹部のある筋肉が痙攣的(けい れんてき)に収縮して肺の中の空気が週期的に断続して呼び出されるという事である。息を呼出する作用にそれを食い止めようとする作用が交錯して起こるようである。ところがある心理学者の説を敷衍(ふえん)して考えるとそういう作用が起こるので始めて「笑い」が成立する。笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではないという事になる。 私が始めてこの説を見いだした時には、多年熱心に捜し回っていたものが突然手に入ったような気がしてうれしかった。 笑う前にその理由を考えてから笑うという事は不可能であるとしても、笑ってしまったあとで少なくもその行為の解明がつかないのは申し訳のない事であると思っていた。その困難な説明がどうやらできそうな心持ちがしだした。 それにはこの学者の説と、昔よそのおばさんが言った「どこかおなかに弱い所があるせいでしょう」という事とを合わせて考えてみるといいようである。 以上にあげた特殊な「笑い」の実例を見ると、いずれも精神ならびに肉体に一種の緊張を感じるべき場合である。もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力が無意識の間に断続する。たとえばやっと歩き始めた子ねこが、足を踏みしめて立とうとする時に全身がゆらゆら揺れ動くのもこれと似たところがある。そういう断続的の緊張弛緩(しかん)の交代が、生理的に「笑い」の現象と密接な類似をもっている。従って笑いによく似た心持ちを誘発し、それがほんとうの笑いを引き出す。とこういうような事ではないだろうか。こう思って自分の場合に当たってみるとある程度まではそれでうまく説明ができるように思われる。医者に診(み)てもらって深呼吸をする時などには最も適切に当てはまるし、その他の場合でもあまりたいした無理なしに適用しそうである。 この仮説が確かめられる時は、自分の神経の弱さ、腹の弱さ、臆病(おくびょう)さの確かめられる時であるというのはきわまりなく不愉快な恥ずかしい事である。しかし同時にその弱さの素因がいくらか科学的につきとめられて従ってその療法の見当がつくとすれば、それはまたこの上もない心強い喜ばしい事である。 実際自分のようなものでも、健康のぐあいがよくて精力の満ちているような場合に、このような変則な笑いの出現する事はまれであって、病後あるいは精神過労の後に最も顕著な事から考えてもこの仮説は少なくともよほど見込みがありそうである。 このような考えから出発して一般の笑いの現象を研究してみたらどうかという事は自然に起こる次の問題である。 狂人やヒステリー患者の病的な笑いはどうであろう。これは第一自分の経験もないし、また観察すべき材料も手近にないからよくはわからないが、たとえば女のからだのある変化に随伴して起こりがちなヒステリーなどは、鬱積(うっせき)した活力が充分に発現されないために起こる病的現象だとすると、前の仮説の領域から全く離れたものとは思われない。 しかしそれはしばらくおいて、もう少し正常(ノルマル)な健全な笑いを考えてみる。 そういう笑いの中で最も純粋で原始的だと言われるのは、野蛮人でも文明人でも子供でもおとなでも共通に笑うような笑いでなければならない。野蛮人がいかなる事を笑うかという事が知りたいのであるがこれはちょっと参考すべき材料を持ち合わせない。やむを得ず子供の場合を考えてみた。子供の笑いの中で典型的だと思うのは、第一に何かしら意外な、しかしそれほど恐ろしくはない重大ではない事がらが突発して、それに対する軽い驚 愕(きょうがく)が消え去ろうとする時に起こるものである。たとえば人形の首が脱け落ちたり風船玉のようなものが思いがけなく破裂したり、棚(たな)のものが落ちて来たりした時のがその例である。第二にこれと密接に連関しているのは出来事に対する大きな予期が小さな実現によって裏切られた時の笑いである。ビックリ箱をあけてもお化けが破損していて出なかったり、花火ができそこなってプスプスに終わったとかいうのがそれである。この二つは世態人情に関する予備知識なしに可能なものであって、それだけ本能的原始的なものと考えられるが、この二つともにともかくも精神ならびに肉体の一時的あるいは持続的の緊張が急に弛緩(しかん)する際に起こるものと言っていい。そうして子細に考えてみると緊張に次ぐ弛緩の後にその余波のような次第に消え行く弛張(しちょう)の交錯が伴なうように思われる。しかし弛緩がきわめて徐々に来る場合はどうもそうでないようである。 惰性をもったものがその正常の位置から引き退けられて、離たれた時に、これをその正常の位置に引きもどさんとする力が働けば振動の起こるというのは物質界にはきわめて普通な現象である。そして多くの場合においてその惰性は恒同であり、弾力は変位(デ?スプレースメント)に正比例するから運動の方程式は簡単である。しかしこの類型を神経の作用にまでも持って行こうとすると非常な困難がある。かりにあるものの変位がプラスであれば緊張、マ?ナスであれば弛緩の状態を表わすとしたところで、その「もの」がなんだかわからなければその質量に相当するものも、弾力に相当するものもわかりようはない。従ってこれが数学的の取り扱いを許されるまでにはあまりに大きな空隙(くうげき)がある。 それにもかかわらず笑いの現象を生理的また心理的に考える時にこの力学の類型(?ナロジー)が非常に力強い暗示をもって私の想像に訴えて来る。そうして生理と心理の間のかけ橋がまさにこの問題につながっていそうに思われてならない。 これを一つの working hypothesis として見た時には、そこからいろいろな蓋然的(がいぜんてき)な結果が演繹(えんえき)される。たとえば笑いやすい人と笑いにくい人などの区別が、力学の場合の「粘性」や「摩擦」に相当する生理的因子の存在を思わせる。粘液質などという言葉が何かの啓示のように耳にひびく。あるいは笑いの断続の「週期」と体質や気質との関係を考えさせられる。またかりに「笑い」が人類に特有な現象だとすれば、他の動物では質量弾力摩擦の配合が週期運動の条件を満足させないために振動が無週期的 aperiodic になるのではないかという疑いも起こる。 子供の笑いと子供にはわからないおとなの笑いとの間には連続的な段階がある。(,)尊厳がそこなわれた時の笑い、(,)人間の弱点があばかれた時の笑いなどは必ずしもこれを悪意な Schadenfreude とばかりは言われない。ここにもある緊張のゆるみが関係してくる。 (,)望みが遂げられた時の喜びの笑い、これも無理なしにここの仮説の圏内にはいる。 少しむつかしくなるのは、(,)得意な時の自慢笑い、(,)軽侮した時の冷笑などである。しかし(,)には(,)と(,)の混合があり、(,)には(,)や(,)の錯雑がある。 (,)苦笑というのがある。これは自分を第三者として見た時の(,)と(,)とが自分を自分とした時の苦痛と混合したものででもあろうか。 こんなふうにしてもっといろいろな種類の笑いが,,,……というぐあいに導き出されそうに思われる。しかしこのような問題はもう純粋な心理の問題になって肉体との縁が遠くなる。これは自分のここに言おうとする事ではなかった。 この「仮説」はただ自分の奇妙な「笑い」に対する少年時代からの疑いを解くために考えたものである。この考えの普遍性を主張しようとしているわけでは決してない。しかしそれが少なくも多数の人に普遍なものを含んでいなければ私はやはり安心ができない。 物事を系統化する事の好きな人はその系統にはいらない事実に盲目になりがちなものである。私の現在の場合にもそんな傾向がないという事は断言できない。それでこれはまだまだ充分に考えてみなければどうなるかわからないが、しかしよく研究してみたらいくらか物になりそうな見込みはある。 読者の内にもし専門の学者があらばその人はこの私の素人(しろうと)考えを正してくれるかもしれない。もしまた素人で同じ経験を持っている人があらば、その人は同じ問題の追求に加勢してくれるかもしれない。このような考えから、私はこの懺悔(ざんげ)とも論文ともつかないものを書いてしまった。この全編の内容が一般の読者の「笑い」の対象になっても、それはやむを得ないのである。 (付記) この稿をだいたい書いてしまって後に、ベルグソンの「笑い」という書物が手に入って読んでみた。なるほどおもしろい本である。この書の著者は、笑いにはすべて対象があるものと考えていて、対象のない笑いには触れていない。そしてその対象は直接間接に人間的なものと考え、顔や挙動や境遇や性格やの滑稽(こっけい)になるための条件公式あるいは規約のようなものをいくつも、科学的に言えばかなり大胆に持ち出してはそれを実例と対照させ説明している。それを基礎として喜劇というものが悲劇ならびに一般芸術に対してもつ特異の点を論じたり、笑いの社会道徳的意義を目的論的な立場で論じたりしている。 読んでいるうちにいろいろ有益な暗示も受けるし、著者の説に対する一二の疑いも起こった。しかしこれを読んだために私がここに書いた事の一部を取り消したり変更する必要は起こらなかった。私の問題は「対象なき笑い」から出発して、笑いの生理と心理の中間に潜むかぎを捜そうとするのであるが、ベルグソンはすっかり生理を離れて純粋な心理だけの問題を考えているのである。 ベルグソンの与えている種々な笑いの場合で私のいわゆる「仮説」とどうしても矛盾するようなものはなくて、むしろこれに都合のいい場合がかなりにあった。そしてこの書の終わりに近くなって笑いと精神的の弛緩(しかん)との関係に少しばかり触れている一節があるのを見いだして多少の安心を感じる事ができた。 これらの読後の感想についてはしるしたい事がいろいろあるが、この稿とは融合しない性質のものだから、それは別の機会に譲る事にした。 (大正十一年一月、思想)
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