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Arendt 沒有說的事

2012-05-14 10页 pdf 608KB 7阅读

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Arendt 沒有說的事 ハンナ・アーレントが言わなかったこと 伊 藤 正 博 はじめに カントは『判断力批判』において、趣味判断は普遍 妥当性の要求を含むという命題を掲げ、その根拠を共 通感官(GemeinSinn)に求めた(1)。ドイツ・ロマン 主義の系譜に連なる後世の思想家たちはカントのこの 議論のうちに共同体の創設原理を示唆する着想を認め、 それを発展させるいくつかの試みを行なったが、それ らの試みは、やがて到来したナショナリズムの波に呑 み込まれ、さらにはナチズムの国家論に利用されると いう運命をたどった...
Arendt 沒有說的事
ハンナ・アーレントが言わなかったこと 伊 藤 正 博 はじめに カントは『判断力批判』において、趣味判断は普遍 妥当性の要求を含むという命題を掲げ、その根拠を共 通感官(GemeinSinn)に求めた(1)。ドイツ・ロマン 主義の系譜に連なる後世の思想家たちはカントのこの 議論のうちに共同体の創設原理を示唆する着想を認め、 それを発展させるいくつかの試みを行なったが、それ らの試みは、やがて到来したナショナリズムの波に呑 み込まれ、さらにはナチズムの国家論に利用されると いう運命をたどった。そのためこの試みは第二次大戦 後しばらく顧みられなくなっていた。『判断力批判』を 手がかりにして共同体の問題を考える試みが再興され るのは1960年代のことで、その先鞭をつけたのはユダ ヤ系出自の哲学者であるハンナ・アーレントだった(2)。 だがアーレントの『判断力批判』の読み方は、それ 以前の試みを継承するようなものではなかった。かつ ての人々が、趣味判断のもつ普遍妥当性の要求を新た な普遍を構築せよという要求として読み込み、そこか ら同質的なメンバーから成る有機体的な国家の理念へ と向かったのに対して、アーレントは、美的判断が対 象の再認(Rekognition)の猶予をその内的契機とす る判断であることを重視する読み方をして、質的に異 なった多様な人間をつなぐ社会的紐帯を形成する原理 をそこに求めた。思想史に即して見るならば、いわば、 彼女は『判断力批判』を国家主義者たちの手から取り 返したのである。 しかしアーレント自身の問題意識の中心は少し別の ところにあったようである。この仕事に取り組む必要 性を彼女に意識させたのはアイヒマン裁判の傍聴経験 だったといわれる。アイヒマンは、自分はカントの道 徳律に基づいてヒトラーの命令を履行したと法廷で陳 述した。裁判レポート『イェルサレムのアイヒマン』(3) を読むと、アイヒマンの主張をカント哲学の歪曲とし て片付けようとして果たせずにいるアーレントの姿が 浮かび上がってくる。彼女はこのレポートのあちこち でカントを意識していると思われる考察を試みている が、いずれもすっきりしたものではない。彼女が言い よどんだその先には『実践理性批判』のもつ危うさが 見え隠れしている。 そういうわけで、アーレントが『判断力批判』研究 に着手する直接のきっかけとなったのは、『実践理性批 判』が抱え持つ問題に直面したことだったと考えられ る。すなわち彼女にとって『判断力批判』を共同体論 として読むことは、何よりもまず、そこに見られるカ ント自身の論理に即して『実践理性批判』の立場を批 判的に乗り越えるという意図、つまりカント倫理学の 内在的批判を遂行するという意図をもった仕事だった のである。 しかしながらアーレントは結局、『実践理性批判』の どこがどのように問題なのかということを直接、主題 的に論じることはしなかった。だが、もし彼女が『判 断力批判』の解釈を通して「真の」カント像を提示す るだけで事足りると考えていたのだとすれば、それは きわめて誤解を招きやすい措置だったといわざるをえ ない。というのも『イェルサレムのアイヒマン』で彼 女が直面しているのは、『実践理性批判』と『判断力批 判』との違いが際立つところに見出される問題ではな く、むしろ『実践理性批判』のなかでカントが最も『判 断力批判』に近づいたところに見出される問題だから 17 である。 この問題の所在を正確に把握しておくことは、アー レントの『判断力批判』の読み方とそれ以前の人々の 読み方との違いの根本にあるものをはっきりさせるう えでも、また彼女の読み方の帰趨を見極めるうえでも 必要であると思われる。『実践理性批判』の危うさは『判 断力批判』の危うさとつながっているからである。以 下の論考は、そういう観点から、この間題についてラ カン派精神分析に基づくカント解釈を踏まえて考察し たものである。 アイヒマンのカント解釈 『イェルサレムのアイヒマン』のなかでハンナ・アー レントは、「自分はこれまでの全生涯をカントの道徳律 にしたがって生きてきた」というアイヒマンの述懐に ふれて、つぎのようなコメントを加えている。 「・ ・ ・一見するとこれは突飛な、理解しがたい発言 である。というのもカントの道徳哲学は、無批判的な 服従を斥ける人間の判断能力と深く結びついているか らである。・・・・ところが誰もが驚いたことにアイヒ マンはカントの定言的命令のおおよそ正しい定義を下 してみせた。『わたしがカントについて言ったことは、 わたしの意志の原則はつねに普遍的な法の原則となり うるようなものでなければならないということで す』 ・ ・ ・・それから彼は、「最終的解決」の実施を 命じられたときから自分はカントの原則に従って生き ることをやめた、そのことは自覚していたが、自分は もはや「自らの行為の主人」ではなく「何かを変える」 ことは自分にはできないと考えて自分を慰めていたと 説明を試みた。彼が法廷で言わなかったことは、「国家 によって犯罪が合法化されていた時代」――今は彼自 身もそういっていた――においてカントの方式をもは や適用しえぬものとして退けてしまっただけでなく、 これをつぎのように読み曲げていたということである。 すなわち、『汝の行動の原則が立法者の、もしくは国法 の原則と同一であるかのごとく行為せよ』、あるいは、 ハンス・フランクの「第三帝国の定言的命令」にある ように、『総統が汝の行動を知ったとすれば是認するよ うに行動せよ』と。カントにはもちろん、このような 種類のことは全然言う気がなかった。反対にカントに とってはすべての人間はその実践理性を用いることに よって、法の原則となりうる原則、法の原則となるべ き原則を見出すのであった。しかしアイヒマンのこの 無意識の歪曲が、彼自身が「凡人の日常の用に供する ための」カント解釈と一致することは事実である。こ の日常の用においてカントの精神のうち残されたもの は、人間は法に従うだけであってはならず、単なる服 従の義務を越えて自分の意志を法の背後にある原則― ―法がそこから生じてくる源泉――と同一化しなけれ ばならないという要求だけである。カント哲学におい てはこの源泉は実践理性である。アイヒマンのカント 哲学の日常の用においては、それは総統の意志である。 最終的解決の実施におけるおそろしく入念な徹底ぶり の多くは――これは典型的にドイツ的なものとして、 あるいはまた完壁な官僚に特徴的なものとして人の目 を引く徹底さであるが――、法を守るということは単 に法に従うということだけではなく、自分自身が自分 の従う法の立法者であるかのように行動することを意 味するという、事実ドイツではごく一般的に見られる 観念に帰せられうる。」(4) 『イェルサレムのアイヒマン』のなかで、アイヒマン のカント解釈への直接的言及がなされているのは、こ の個所だけである。アーレントはここで、アイヒマン がみずからの「実践理性」に属する権能を「総統の意 志」に委譲することによってカントの精神を台無しに しているという点に批判の的を絞り、それさえ指摘し ておけば十分だというかのように、この話題をさっさ と切り上げている。しかし最後の方をよく見ると、問 題がそれほど単純ではないことを示唆する記述が見え 18 隠れしており、そのことがこのコメントに、全体とし ての歯切れの悪さと、唐突に議論を打ち切ってしまっ たような印象とを与えている。以下にアーレントのコ メントを整理して、ここで彼女が持ち出しかけた(そ して思いとどまった)論点について考えてみよう。 まず、「総統の意志」に「実践理性」の地位を占めさ せることによって、アイヒマンの解釈は以下の二つの 点でカントから離反している、とアーレントが考えて いたことは、コメントの文脈から容易に読み取ること ができる。第一に、カントの考える道徳的主体とは何 よりもまず、みずからの行為の格率をみずから措定す るという意味において立法者である。そのかぎりにお いて、主体はみずからの格率が普遍的なものとなるこ とを望むことを許されもするのである。これに対して アイヒマンの場合には、立法者は総統という他者であ り、主体にとって問題となるのは、この他者の意志に 同一化することでしかない。このことによってアイヒ マンの場合にはカントが道徳性の第一条件とみなす主 体の自律性が損なわれている、とアーレントは考えて いる。第二に、カントにあっては「法の背後にある原 則」「法がそこから生じてくる源泉」は、すべての理性 的存在者の必然的な同意を含意する意志としての純粋 実践理性である。これに対してアイヒマンのようにそ の位置を「総統の意志」に占めさせるならば、たとえ 「第三帝国にあっては総統の意志は法としての効力 (Gesetzeskraft)を持っていた」(5)という彼の主張を 認めたとしても、命法の普遍妥当性が損なわれること は明らかだとアーレントは考えている。 しかし第一の点に関しても第二の点に関しても、問 題はそれほど簡単ではない。第一の点に関していえば、 アイヒマンにあっても、単に与えられた命令に唯々 諾々と服従することが道徳的だと考えられているわけ ではない。そうではなく、あたかもその命令を立てた のが自分自身であるかのように、命令を下した意志へ とみずからの意志を同一化させる、という自発的な手 続きを介在させることによって、命令への服従は自律 的行為へと転化され、道徳的なものとなりうる、とア イヒマンは考えている。簡単に言えば、「汝の格率が普 遍的な法則となるように」というカントの定式を「普 遍的な法則が汝の格率となるように」というかたちへ と逆転させたものが、アイヒマンの定言命法なのであ る。ただし、いうまでもなくアイヒマンの場合は、「普 遍的な法則」の置かれるべき場所に「総統の命令」が 置かれているという第二の問題をはらんでいるのだが。 しかし、この点に関しても、アイヒマンが行なった置 き換えは、決して単にカントの定式の歪曲として片付 けるわけにはいかない微妙な問題を含んでいる。とい うのも、ヴァルター・ベンヤミンが『暴力批判論』で 取り上げる神話的暴力(mythische Gewalt)、あるい はアーレント自身が『革命について』で言及している 革命の「はじまり」としての暴力といった、法の起源 として現れ、みずからの生み出した法の陰に姿を隠し てしまう暴力をめぐる問題が、ここには生じているか らである(6)。さらに言えば、「総統の命令」が「最終 的解決」である場合には、一切を浄化する神的暴力 (göttliche Gewalt)とベンヤミンが呼ぶものに関わる、 よりセンシティヴな問題が浮上してくる(7)。だが、こ の問題の検討は次の機会に譲り、ひとまず第一の問題 に戻ろう。「汝の格率」と「普遍的な法則」との関係が 逆転された定式に即して立てられた格率の場合でも、 少なくとも普遍化可能性という道徳性の基準を満たす という点では元の定式に即して立てられた格率の場合 と変わらない。はたしてカントの定言命法はこの変形 を許すのだろうか、それとも、そこにはなにか重大な 意味内容のちがいが生じているのだろうか。 上に引用した叙述に見られるように、アーレントは、 「法の背後にある原則」「法がそこから生じてくる源泉」 へと「自分の意志を同一化しなければならないという 要求」に関しては、アイヒマンの解釈は「カントの精 神」と一致するものであると認めている。だがその「カ ントの精神」は、それに引き続いて彼女があげつらっ ている「法を守るということは単に法に従うというこ 19 とだけではなく、自分自身が自分の従う法の立法者で あるかのように行動することを意味するという、事実 ドイツではごく一般的に見られる観念」と、どのよう に異なるのか。もしこの「官僚に特徴的な」遵法精神 の向かうところが「普遍的な法則」であったとすれば、 それはカントの考える道徳的行為の主体のあり方と合 致するということになるのだろうか。アーレントはこ の問いの手前までわたしたちを導いたところで議論を 打ち切ってしまう。 もしかするとアーレントは、ここはカント学説の細 部にまで立ち入った煩瑣な議論をする場ではないと判 断して口を噤んだのかもしれない。あるいは、みずか らの批判の矛先がアイヒマンを離れてカント自身に向 かうことを避けたのかもしれない。いずれにせよ、単 にアイヒマンによる「無意識の歪曲」として片付ける わけにはいかない、カントの倫理思想それ自体にかか わる問題がそこに見出されることに彼女が気付かなか ったとは考えにくい。たとえば次の一節などは、カン ト倫理学の暗部を覗き込むような叙述ではないだろう か。 「人間の自然な欲望や傾向は時として殺意になるこ ともあるが、それにもかかわらず良心の声は万人に『汝 殺すべからず』と命じる――このことを、文明化され た諸国の法律は前提している。それとまったく同様の 仕方で、ヒトラーの国の法律は良心の声がすべての人 間に『汝殺すべし』と語りかけることを要求した。つ まり、殺戮の組織者たちは殺人が大多数の人間の正常 な欲望や傾向に反するということを十分知っているに もかかわらず、それを命じたのである。第三帝国の『悪』 には、大多数の人にとって悪を悪と識別するよすがと なっている特質が欠けていた。すなわち誘惑という特 質がそれである。多くのドイツ人が、多くのナチ党員 が、おそらくその圧倒的大多数が、殺さないこと、奪 わないこと、隣人を死に赴かせないこと(というのも、 もちろん彼らはユダヤ人が死へと運ばれていたことを 知っていたから。たとえそのぞっとするような細部は 知らなかったとしても)のほうに、誘惑を感じていた にちがいない。そして、そこから利益を得ることによ ってこれらの犯罪すべての共犯者になりたくない、と いう誘惑を感じていたにちがいない。だが、なぜか、 彼らは誘惑に抵抗するすべを学んだのである。」(8) アーレントはここで、多くの人間が「汝殺すべし」 という命令を受け入れたのは、その命令が彼らの「正 常な欲望や傾向に反する」ものとして課されたからこ そである、という逆説的な主張をほとんど口に出しか かっている。カントは『単なる理性の限界内の宗教』 において、一切の感性的な動機(patrogische Triebfeder)を去って、なおかつ道徳法則の反対命題 を選び取ることを悪魔的な(teuflisch)悪意とみなし、 それは人間には不可能だと言ったのだが(9)、アーレン トは、その反証となる事実、「大多数の人間」がそれを 実現しえたという事実がここに示されているではない か、と言いかけているのである。とはいえ、ここでも また彼女は、「なぜか(God knows)」と言ったきり口 を噤んでしまう。 しかし近年になって、アーレントが示唆したこれら の問題を主題的に取り上げたカント研究が現れている。 アレンカ・ズパンチッチの『現実界の倫理』(10)がそ れである.。以下に節を改めて紹介・検討しよう。 二つの道徳法則 「汝の格率が普遍的な法則となるように」というカ ントの本来の定式と「普遍的な法則が汝の格率となる ように」という定式との異なる点は、後者の定式の場 合には格率の措定に先立って法則が与えられていると いうことである。周知のとおり定言命法の導出に際し てカントは格率の形成が立法的(gesetzgebend)であ ることを強調しており、そのくだりを素直に読むかぎ り、定言命法を後者の変形された定式に引きつけて解 釈することには無理がある。けれども道徳的判断の具 20 体例を提示する段になると、しばしばカントは何の断 りもなく後者の定式に即した議論へと移行している。 たとえば主体が義務と感性的動機との二者択一に直面 するという例を持ち出す場合、カントが義務の側に置 くのは、事情を問わず万人に妥当することが了解済み であるとみなされた、具体的な内容をもった命令であ る。カントのそのような具体例にでてくる道徳的行為 の主体は「大文字の他者の道具」という位置に立って いるという点でサドの小説に登場する放蕩者と同様で あると、かつてジャック・ラカンは喝破したのだが(11)、 近年になって、カントのテクストの綿密な検証を通し てこのラカンの指摘を裏付けるような研究が、スロベ ニアの哲学者アレンカ・ズパンチッチによってなされ ている。 ズパンチッチは問題を最も明確に示す例として「人 間愛から嘘をつく権利の虚妄」(12)においてカントが 取り上げる具体例を引いている。それは、「友人を追っ てきた刺客の質問に対して、自分は友人を匿っていな いという嘘の返答をすることは許されるか」という例 である。この例は、そこでカントが下している結論が 常識にそぐわない(もちろんカントはこの場合、嘘を つくべきではないと答えている)ことから、これまで にも何かと物議を醸してきた例であるが、ズパンチッ チが問題にするのはそのことではない。「誰かが刺客に 本当のことを教えるのを自分の義務とみなすというこ とは可能であり、どれほど逆説的に見えようとも、そ れは道徳的な行為でありうる」(13)と彼女は言う。す なわち、道徳法則はいかなる善の概念から導かれるも のでもなく、逆に、一切の可能的な善の定義にとって の基礎をなすものであるから、隣人の益をなすという こと(善)が「嘘をつくな」という無条件的に課され た義務(道徳法則)を放棄する口実となることはあり えない、という考えは当然成り立つというのである。 何らかの善の観念から出発する一切の倫理学を斥ける カントの基本姿勢を最もよく示しているのは、常識に とって受け入れやすい他の諸例よりもむしろ、義務を 明確に他者にとっての善と対立させているこの具体例 なのである。 ズパンチッチによれば、本当の問題は、ここでは「嘘 をついてはならない」という命題が、いかなる理性的 主体に対しても妥当するレディ・メイドの命令として、 主体の外部にあらかじめ存在すると考えられているこ とにあると言われる。「そのことが、無制約的義務とし て課されているからという理由でみずからの行為を正 当化し、道徳法則の陰に隠れてみずからを立法的意志 の『単なる道具』とみなすという倒錯的な態度を主体 がとることを可能にしているのである」(14)、「容認で きないのは、主体が『そういう義務がわたしに課され た以上、わたしは他にどうしようもなかったのだ。 わたしは法則の命令に従っただけだ』と主張すること である」(15)、とズパンチッチは言う。実際にカント はここで、刺客に本当のことを告げるという行為がど のような結果を招こうとも、その行為の主体に責任は 帰せられない、と言い切っているのである。 だが、定言命法の本来の定式に即して考えれば、カ ント的な道徳的主体のあり方はそのような言い逃れを 許すものではないはずだ、とズパンチッチは言う。 「道徳的主体は普遍的なものの代理人(agent)では なく、その当事者(agence)である。これによってわ たしが言っているのは、ただ単に普遍的なものはつね に「主体によって媒介されて」いるということだけで はない。また、法はつねに「主観的(部分的、選択的、 先入見的)」だということが言いたいわけでもない。わ たしは普遍的なものの何らかの定義ではなく、主体の 定義を問題にしているのだ。わたしが言いたいのは、 主体とはまさにこの普遍化作用の動因、法の構成ない し規定の動因以外のなにものでもないということ、こ れである。道徳的主体とは、与えられた(道徳的な) 状況のうちに自分の主観的な荷物を一切合財持ち込ん では波風を立てる(たとえばみずからの傾向性に即し た格率を形成する)といった主体ではなく、厳密な意 21 味において、この状況から生まれる主体、そこから出 現する主体である。道徳的主体とは、普遍的なものが それ自身へと到来し、その規定に到達する地点なので ある。」(16) 一見するとカントというよりは、むしろキルケゴー ルに近い言い方になっているが、ズパンチッチはここ で、カントの定言命法のうちに暗に含まれている内容 を明確化しているにすぎない。すなわち、一つには、 何らかの行為が道徳的行為でありうるためには、その 行為をみずからの義務とみなすような主体の格率形成 (=立法)を通してそうなる以外にはないということ、 いいかえれば、そうした主体的関与が法則それ自体の 普遍性の構成要件をなしているということを、彼女は 指摘している。したがって、無条件に万人に課される 道徳的行為の一覧表が主体にさきだって与えられてい るわけではなく、一つの行為をみずからの義務として 位置づけた責任は主体自身に帰せられるということに なる。 それではカントは、アプリオリな道徳性の原理それ 自体を究明する段階でのこの考え方から、どこで、ど のようにして逸脱してしまったのか。ズパンチッチの もう一つの指摘――道徳的主体とはその意志の決定を 通して新たに生み出される主体であるという指摘―― は、この問いに答えるための糸口を与えてくれる。道 徳的命令は、純粋な理性的存在者ではなく同時に感性 界に属しもする人間という主体に対して、一切の感性 的な動機を顧みないことを要求する。それは人間に対 してその存在の基礎的条件を超え出よと命じることに ほかならない。そういう意味で、道徳的に行為すると いうことは、いわば人間ならざる新たな主体を生み出 すことである。しかしそれは逆にいえば、主体が人間 として存在するかぎり、その道徳的行為はつねに挫折 を運命づけられているということである。 ズパンチッチはカント倫理学の卓越性をここに認め る。カント倫理学が道徳的行為の実現可能性に関する このようなアポリアに逢着するのは、ラカンが現実界 (le réel)と呼ぶ次元にまで、それが踏み込んでいるか らである。現実界とは、大まかに言えば、カントにお ける叡智界(intelligible Welt)や物自体(Ding an sich)に対応する次元である。伝統的な倫理学が現象 界に見出される「善きもの」を考察するだけであった のに対して、カント倫理学はその彼岸(叡智界)を射 程におさめることにより、一切の「善きもの」の規定 根拠となる善意志を主題化するところまで到達してい るのである。だが、この卓越性は同時にカント倫理学 の危うさでもあり、上に見たような「サドの罠」にカ ントが陥る誘因ともなっている、とズパンチッチは言 う。以下に説明しよう。 カントによる叡智界の捉え方とは異なり、ラカンは 欲望との関連において現実界を捉え、ある種の論理的 時間関係の中にそれを位置づける。それによれば、現 実界とは、語る主体(sujet parlant)としての人間に とっては、みずからが言語的秩序に服属したことによ って決定的に喪失した原初的な充足の世界として回顧 的に想定されるものでもあるとされる。そういう意味 での現実界へと回帰し、それがもたらす享楽 (jouissance)を取り戻そうとするエロス的な欲動は、 人間の欲望を根本的に方向づけている。けれども原初 の充足を実現するためには語る主体であることを放棄 しなければならない。語る主体にとって、それは死を 受け入れることを意味する。それゆえ現実界へと人間 を誘うものは、同時に死の欲動(Todestrieb)でもあ る。そういう意味において現実界は、語る主体にとっ て単に回帰不可能というだけでなく、忌避されるべき ものでもある。人間の欲望を導くシニフィアンの連鎖 (カントの文脈で言えば「善きもの」たち)は、死の欲 動が直接的な仕方で発動することのないよう、現実界 から主体を逸らせるために組織されていると言っても よい。このようなラカンの精神分析理論の文脈の中に 置いてみるならば、道徳的行為の実現とは、死を受け 入れることによってしか手のとどかない享楽の実現に 相当するものである。カント倫理学の危うさは、この 22 ような享楽の引力圏に深く立ち入ったことから生じて いる。 ズパンチッチによれば、カントは定言命法の定式か ら道徳的行為の実現可能性の問題が生じてくることを 承知していながら、それを直視することを回避してい ると言われる。すなわちカントは、一切の感性的な動 機から離れることが人間的存在から離脱することを意 味する以上、人間は意志と法則との完全な一致(最高 善)を「その生存のいかなるときにおいても所有する ことができない」ということを一方では認めながらも、 他方ではこの対象への接近不可能性を「否認」し、そ の空想的な実現(魂の不死によって可能となる「無限 の前進」)のシナリオを思い描くことによってこのアポ リアを擦り抜けようとする。カントが倒錯の方向に大 きく傾くのはこのときである。というのも、カントは このシナリオによってヌーメナのもつ実践的実在性を 地上の実践からの直接的連続性のうちに位置づけよう とするのだが、それは、享楽を表象の次元に引き入れ て捕えようとする倒錯の基本的戦略にほかならないか らである。 倒錯の戦略 それではこの倒錯の戦略は具体的にどのように組み 立てられているのか。尊敬(Achtung)についてのズ パンチッチの議論を概観することを通して、それを明 らかにしよう。上に見た道徳法則の二種類の現れ方に 応じて、もう一つの水準における道徳法則の現れであ る尊敬についてのカントの説明も両義的なものになっ ていることを彼女は指摘する。 ズパンチッチによれば、本来の定言命法の定式に即 して考えるならば、尊敬はラカンの定義する不安の感 情と同じ成り立ちをもつものであるはずだと言われる。 ラカンは「不安は特定の対象をもたない」という通念 を斥け、逆に、不安において主体はあまりにも対象に 近づきすぎているのだと主張する。すなわち、不安に おいて対象が見失われるのは対象の不在や特定不可能 性のせいではなく、対象に接近しすぎることによって、 表象作用の主体としての条件が損なわれるような事態 が主体の側に生じるからだ、とラカンは言うのである。 ではその問題となる表象作用の主体としての条件とは 何か。それは、みずからが表象するものの領域から主 体自身が抜け落ちることであり、そのようにして自己 との直接的な関係を失うことである。ズパンチッチの 叙述を引用しよう。 「カントの理論では、表象作用の主体の構成はある種 の喪失と結びついている。主体が喪失するのは、いわ ば、かつて一度も主体が持ったことのないもの、つま り、自己自身への直接的なアクセスである。これはデ カルトのコギトに対するカントの批判の要点をなして いる。自己自身と完全に一致する主体などというもの は、いまだ主体とはいえない。いったん主体というも のになってしまったら、もはや自己自身とは一致せず、 一つの「対象」としての自己について語ることができ るだけである。自己自身に対する主体の関係は、他の すべての(表象の)対象に対する主体の関係と何ら変 わらない。「自我」は一つの表象にすぎず、とりたてて 他の表象と異なるものではない。この基本的喪失ない し疎外が「客観的実在性」(現象としての実在性)を開 示し、主体がみずからを主体とみなすことを許すので ある。ラカンの用語でいえば、主体を構成するときに 必然的に現実界のかけらが抜け落ちるのである。」(17) 不安において損なわれている表象の主観的条件とは、 表象作用の基礎となっているこの喪失である。不安の 対象とは、表象の領域から脱落した主体自身にほかな らず、主体はあまりにもそれに近づきすぎるために、 いわば「喪失の喪失」という事態に陥るのである。尊 敬の場合もこれと同様である。すなわち、道徳法則も また「現実界のかけら」すなわちヌーメノンであり、 けっして義務の具体的内容をポジティヴに告げてこな 23 い大文字の他者の不気味な沈黙であり、そしてそれは 表象の領野を開示しつつみずからは姿を消す「物自体」 としての主体自身とみなされもするものである。尊敬 とは、そのような道徳法則に近づきすぎた主体が、認 識主観であるために必要な「喪失」を喪失するという 体験なのである。『実践理性批判』に見られる「いかに して法則がそれのみで直接的に意志の規定根拠となり うるかということは人間理性によっては解決不能の問 題である」(18)とか「法則に対する尊敬は道徳性の動 機ではなく、主観的に動機として考察された道徳性そ のものである」(19)といった記述は、尊敬を表象とし て捉えることの困難さをカント自身もある程度まで察 知していたということを物語るものだとズパンチッチ は考える。 ところで尊敬についての以上のような説明には、ひ とつ補足しておかなければならないことがある。『実践 理性批判』のカントの文脈では、尊敬は「道徳法則が 意志を直接(unmittelbar)規定する」ことによって 生じる効果であると考えられている。その場合には、 対象(道徳法則)は単に主体の近くにあるだけではな く、主体に直接触れていることになる。したがってカ ント自身による尊敬の説明は、ラカンにおける不安と いうよりもむしろ享楽――もし仮に道徳的行為が実現 されたとすれば、そこで体験されるだろうと考えられ る享楽――についての説明に近いものと見なされるべ きである。したがって、このカントの文脈で語られる かぎり、尊敬とはそれ自体「単に可想的な」体験でし かないはずである。 だが、尊敬が以上のようなものとして理解されるに もかかわらず、『実践理性批判』では尊敬における「表 象の対象」としての道徳法則のイメージがさまざまに 描き出されている。このことについてズパンチッチは、 それは表象の次元を再建して現実界を覆い隠し、現実 界と直面することを回避しようとする試み、すなわち、 道徳法則の表象不可能性に耐えられず、その欠如を具 体的なイメージで埋め合わせてしまおうとする防衛 (Abwehr)の試みであると言う。たとえば、「実践理 性・・・その声(Stimme)は最も不敵な罪人をも戦 慄せしめ、彼をしてその眼差し(Anblick)から怖じ 隠れなければならないようにさせる・・・」(20)とい った表現に、それは典型的にあらわれている。ここに 見られるのは、フロイトが恐怖症のうちに見出した、 恐ろしい対象を作り出し、それによって不安を覆い隠 すという戦略と同様のものである。すなわち、道徳法 則を想像上の厳めしい他者の声や眼差しとして具象化 することによって、「アプリオリな感情」としての尊敬 を恐怖という感性的・経験的な感情のひとつで覆い隠 すという操作がここでは行なわれているのである。 しかし、この恐怖症の戦略は単なる消極的な防衛に とどまらず、倒錯への橋渡し役をするものでもある。 道徳法則を想像上の他者から到来する命令として疎外 するこの試みは、続いて命令を下す側を主体化し、そ こに次のような感情を認めることへと反転する。 「この感情(尊敬)は、法則への服従として、いいか えれば(感性的に触発された主観に対して強制を宣言 するところの)命令として、それみずからのうちにな んらの快を含まず、むしろその限りにおいて行為に対 する不快を含む。とはいえこの強制は自己みずからの 理性の立法によってのみ行なわれるから、また高揚 (Erhebung)を含むのである。」(21) ここに見られる「高揚」は、明らかに『判断力批判』 における崇高の感情(Gefühl des Erhabenen)と同質 のものであり、主体がみずからのうちに「法則への服 従」と「行為に対する不快」とを「見る」という事実 によって引き起こされる感情である(22)。このように カントは、本来ならば表象不可能性の体験、かつ単に 可想的な体験であるはずの尊敬を、二つに分裂した主 体の二つの感情へと分節化することを通して、具体的、 経験的な表象の次元に引き入れる。ただし、いうまで もなくカント自身はこのような「恐怖」や「高揚」を 24 「アプリオリな感情」としての尊敬の諸側面と見なして いる。おそらく無自覚的になされたこのようなトリッ クを通して、カントは道徳的行為の主体を経験的次元 に引き降ろすのである。 さて、そのような下準備を整えた上で、これらの感 情――すなわち、いまや表象の次元に引き降ろされた 享楽――を、その出現の現場で取り押さえることを目 的とする倒錯的な行為を考えてみよう。そのような行 為はみずからの目的をあからさまにすることができず、 いわば道徳的行為に寄生するような格好をとらねばな らない。だから倒錯的な主体は道徳的行為の主体の陰 に身を隠さなければならない。そこで倒錯的な主体は、 表向きは道徳的行為の主体としてふるまいつつ、同時 に道徳的行為の主体を内側から眺める表象作用の主体 の位置を占める。いわば道徳的行為の主体からこっそ り抜け出して、その観察者の側に回るのである。そし てこの観察者は、物陰に身を潜めつつ、道徳的行為の 主体の上で演じられる感情のドラマ――そのシナリオ は倒錯的な主体自身がかねて用意していたものであり、 それを演じるのは彼が想像のなかで道徳的主体を分裂 させて作った登場人物たちである――が始まるのを待 ち構えるのである。このような仕方で、認識主体であ ることを放棄することなしに享楽を獲得すること、こ れが倒錯の戦略である。 一見したところ、この戦略は間が抜けているように 見えるかもしれない。というのも、ここで倒錯的な主 体が捕えるのは、正確に言えば彼自身の享楽ではない からである。シナリオライターや演出家として忙しく 働いたあげく、彼が目にするのは結局、想像上の他者 の享楽でしかない。サド的主体が「大文字の他者の道 具」の位置に立つといわれるのは、ひとつにはこのよ うな意味においてである。このことは、倒錯的な主体 が「それが義務である以上、他にどうしようもなかっ たのだ」という言い訳を口に出すのを容易にしている。 「その証拠に、わたしはそれによって何の得をしたわけ でもない」と続けられるからである。だが、このとき 倒錯的な主体は、みずからを道具にすることを通して 他者をその使用者に仕立て上げている張本人が彼自身 であることについて「しらばくれ」ているだけでなく、 他者の享楽を演出することを通して彼自身もこっそり と享楽のおこぼれにあずかっていることについても 「しらばくれ」ている。じつは倒錯の戦略は、始めから そのおこぼれを狙って立てられている。すなわち想像 的表象という私秘的な領域にみずからの王国を構築す ることがこの戦略の目的であり、そのためには、享楽 が実在しうるという可能性への確信を保ち、それを目 指す「無限の前進」を鼓舞することができれば十分な のである。 まとめにかえて さて、ここまで「倒錯的な主体」「倒錯の戦略」等の 表現を用いてきたが、それはなにも、カントが意図的 に彼自身の道徳理論を歪めていると言っているのでは ない。そういう意味ではカントは決して「しらばくれ て」いない。倒錯的な主体が「カントに対して」しら ばくれているのである。同様のことはおそらくアイヒ マンについても、また「汝、殺すべし」という命令に したがった「大多数の人間たち」についても言えるだ ろう。アレンカ・ズパンチッチも指摘するように、人 間は時としてみずからの全く望まない(したがって一 切の感性的動機を免れた)行為をなすのである(23)。 ただしカントの考える道徳的行為とは異なり、それは 自覚的な意志に基づく行為ではない。たとえば神経症 者に見られる失策行為や強迫的行動がその典型的な例 である。それが「ひとつの行為」と見なされるのは、 症状に苦しむ当人のあずかりしらぬ享楽の実現がそこ に認められるからである。そのような行為へと人を駆 り立てているのは、倒錯の場合と同様、死の欲動であ る。 ところで、神経症の症状ほどあからさまではないに せよ、いかなる行為の場合にも同様の仕方による意志 と行為との齟齬が存すると精神分析は考える。そこか 25 ら精神分析は主体と行為の概念を一変させ、主体とは それを生み出した行為を通して遡及的にそれと規定さ れるものであり、行為とはそのつど新しい主体を出現 させるものである、という見解を引き出す。この見解 にしたがえば、天使や悪魔ならいざしらず人間には不 可能だとカントが考えた行為も、十分人間に可能であ るとみなされる。また、それにともなって、主体はみ ずからを生み出した行為の責任を負わねばならないと いう倫理的見解が導き出される。いわば精神分析は「汝 を生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらば くれることなしに汝自身のものと認めよ」という定言 命法を差し出しているのである。この定式にしたがえ ばアイヒマンを裁くことは可能だろう。しかしここに は別の問題が生じている。すなわち、彼のような言い 訳をせず、みずからの責任を認めつつそれを為す者に 対して、たとえば「総統」に対して、精神分析は言う べき言葉を持ちうるか、という問題がそれである。こ の問題は神話的暴力、神的暴力をめぐる問題と関連し ている。それらと合わせて次の機会に検討することに したい。 註 (1) Immanuel Kant,“Kritik der Urteilskraft,”1790, Vorländer版 S.156. ( 2 ) 小野紀明『美と政治』(岩波書店1999)および仲正昌樹『法 の共同体』(御茶の水書房2002)を参照。 ( 3 ) Hannah Arendt,“Eichmann in Jerusalem,”1965.以下、 同書からの引用個所の指示はPenguin Books版(1977)に よる。邦訳は原則として『イェルサレムのアイヒマン』大 久保和郎訳(みすず書房1969)に従ったが、一部変更した。 ( 4 ) Hannah Arendt, op.cit., p.136.邦訳107-108頁 ( 5 ) Hannah Arendt, op.cit., p.148.邦訳116頁 ( 6 ) Walter Benjamin,“Zur Kritik der Gewalt,”Manuscript, in “Angelus Novus : Ausgewählte Schriften 2," Suhrkamp, 1988, S.60-66. および Hannah Arendt,“On Revolution," Penguin Books, 1963, p.20. ( 7 ) Jacques Derrida,“Force de loi,”Galilée, 1994, pp.137-45. また、梅木達郎『脱構築と公共性』(松籟社2002)には、 この問題についての詳しい考察が見られる。 ( 8 ) Hannah Arendt,“Eichmann in Jerusalem,”p.150.邦訳 118頁 ( 9 ) Immanuel Kant,“Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft,”1793, Vorlander版S. 36. (10) Alenka Zupančič,“Ethics of the real,”Verso, 2000. (11) Jacques Lacan,“Kant avec Sade”in“Ecrits,”Seuil, 1966. および“Le Séminaire livre VII:L’éthique de la psychanalyse,”Seuil, 1986. (12) Immanuel Kant,“Über ein vermeintes Recht aus Menschenliebe zu lügen,”1797. (13) Alenka Zupančič, op.cit., p. 60. (14) ibid. (15) ibid. (16) Alenka Zupančič, op.cit., pp.61-62. (17) Alenka Zupančič, op.cit., p.143 (18) Immanuel Kant,“Kritik der praktischen Vernunft,” 1788,Vorländer版S. 128. (19) Immanuel Kant, op.cit., S.134. (20) Immanuel Kant, op.cit., S.142. (21) Immanuel Kant, op.cit., S.143. (22) Alenka Zupančič, op.cit., pp.149-60. (23) Alenka Zupančič, op.cit., p.100 26
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