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狭间直树:善邻译书馆与冈本韦庵

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狭间直树:善邻译书馆与冈本韦庵 Title特別講演 善隣訳書館と岡本韋庵 Author(s)狭間, 直樹 Citation三島中洲研究 (2006), 1: 1-21 Issue Date2006-03-31 URL http://hdl.handle.net/2433/122562 Right© 2006 二松学舎大学21世紀COEプログラム「日本漢文学研究の世界的拠点の構築」 Type Presentation Textversionpublisher KURENAI : Kyoto University Research Inform...
狭间直树:善邻译书馆与冈本韦庵
Title特別講演 善隣訳書館と岡本韋庵 Author(s)狭間, 直樹 Citation三島中洲研究 (2006), 1: 1-21 Issue Date2006-03-31 URL http://hdl.handle.net/2433/122562 Right© 2006 二松学舎大学21世紀COEプログラム「日本漢文学研究の世界的拠点の構築」 Type Presentation Textversionpublisher KURENAI : Kyoto University Research Information Repository Kyoto University 特別議演 《三島十itY¥持議Jt払/ :J.,tJd6.$.31 善隣訳書館と岡本章庵 S ネ£え空会丈~ 狭間直樹 Jる/館記..eO E 7'1:11亨ム 今ご紹介にあずかりました狭間です。中 村(義)先生のほうから過分の紹介をいただ きました。ふつう過分といって初めにそう 言うものですが、これは本当に恐縮の極み でありまして、中村先生の遥か後輩で、ず っと先生方に教えられながら育ってきたわ けですから、“寺から里へ"としづ言葉があ りますように、今日はまさに初めからそう いうことで、たいへんに話しにくいことに なってしまいましたが、せっかくの機会で ございますので与えられた時間で、「善隣訳 書館と岡本章庵Jとしづ話をさせていただ きます。 この会で話すようにということを言われ ました時に、できるだけ自分が考えている ことを話すのが義務だとは思ってはおるの ですが、しかしいただいた三島中洲研究会 の会報などを見てますと、たいへんに深く 三島中洲の研究をみなさん進めておられる。 そういうところに、日本漢学について殆ど 勉強していないものが、しかも、世界的拠 点を作る COEの場で話をするというのは 正直言ってちょっと荷が重いと思いました。 しかし、たまたま岡本章庵のことについ ては少し研究というか、触れるところがあ りましたから、それを紹介することによっ て、三島との接点というようなところが出 てきたら、それとあわせて日本漢学なり、 或いは日本での中国研究、或いはそういう ことの長い歴史を加えての知識について考 察を加えることが出来るかと思って、それ 1 で「善隣訳書館と岡本章庵」というような 題で引き受けさせていただきました。 皆さんのお手元には 3種類のプリントが 行っていると思います。一つは私が作りま した A4裏の、今日のいわゆるレジメに 当たるものであります。それから A3の比 較的たくさん枚数のあるもの、種類として は6種類の資料が入っているんですが、一 番上に A、Bがありまして、一番最後が E とF、2枚目が Cでありまして、 3枚目以 降4頁2枚分が Dであります。三番目にい ま司会の町さんからも言っていただいた章 庵の年譜。これをどんなふうな路年譜を作 ろうかと思っているところに、中村先生が 丁寧にこの年譜でも附けましょうかと百っ てくださいました。ついありがたくハイと いったようなしだいで、そのお話に乗せて いただきました。ですから少し長いものに なっていますが、参照するところはまた話 の中で言いたいと思いますロこれ(~アジア へのまなざし岡本章庵』所収)ちょっと間違 いがあるあるんですけども、本の中に正誤 表が入っていたと思いますから直しておい てください。ここでは正誤は言いません。 では話をさせていただきます。善隣訳書 館という名前については、おそらく皆さん よほどでないとご存じなし、かと患います。 非常に小さなというか、一時期存在しただ けの、出版業を志し挫折した本屋と言って いいと思いますが、しかし出て来る過程が よくわかるということで珍しいものであり ます。なんでこんな所に行き着いたかとい うことから話をいたしますと、いま中村先 生から紹介いただきました梁啓超を研究し ておりまして、梁啓超を研究するにあたっ て、やはり日本で彼が多くの知識を吸収し ているということを少し具体的にトレース せんとし1かん、というのが我々の主要な視 点でございました。そういうところからい くつかの発見を致しましたけれども、なか で善隣訳書館というものにある時、行き着 いたわけです。どういう事かと申しますと、 梁啓超が日本に来て最初に出した雑誌は 『清議報』というものであります口 1898年 の 10月に梁啓超が日本に亡命してきます。 政変の後ですねD 初めは彼は日本国内で主 として政治畑、或いはジャーナリスト。新 関界に働きかけて光緒帝の救出運動をやる んですが、それがうまくし刊かず、より世論 を喚起しようということで雑誌を始めた。 『清議報Jは 1898年四月の暮れが創刊で ありますけども、恐らく当初彼が一番載せ たかったのは「戊成政変記」という、戊成 維新とその後の西太后のクーデタ一、その 後の光緒帝救出運動の必要、これを伝える そういう文章を中心にしたかったと思うん です。 ところが、その戊成政変記はNo.10でもっ て終わってしまいます。それは中断して後 に単行本にしてしまうんですが、それは措 きまして、 10号で終わるということは実は そこで『清議報Jの編輯方針に大変化がお こった口それはどういうことかというと、 光緒帝の救出運動ということも大事だけど も、それよりも清国の国民の覚醒というか、 民衆の国民的な自覚、国民への形成、それ 2 が大事なんだということに彼はどうも気が ついたらしい。そのために『清議報』に「政 治学謹Jとしづ欄をこれから設けると。そ こでやるのは西洋の新しい政治学などの、 そういう紹介なんだということを銘うって やる。 そこへ出てくるものが、実は「国家論」 というものでありまして、それは徳国(ド イツ)のブルンチュリという人のものの翻 訳だということになっているわけですねD H 号から 31号まで、ちょっと抜けている ところがありますが連載されます。ブノレン チュリは日本の事典でもすぐ出てくるんで すが、この「国家論」というものが梁啓超 自身がどこから採ってきたのか分からなか ったんですが、それが実は吾妻兵治(あづ まへいじ)という入の漢訳からとっている ということが分かりました。この漢訳自体 は平田東助なんかがやった日訳、それから の翻訳なんです。それを知っている入はあ ったようなんですが、最初に我々に教えて くれたのはフランス人のパスチドさんとい う方でした。その人の話は措いておきます (~近代史研究~ No.100の巴斯帯論文を参照 してくださしサロ吾妻兵治の孫訳、つまりブ ルンチュリのものを日本人が訳し、日本人 が訳したものを吾妻兵治が漢訳した、そう いう孫訳によって梁啓超は『清議報』に「国 家論j としづ文章を載せているわけです。 吾妻兵治という人は普通の事典では出て きませんし、どんな人か初めは分からなか ったんで、すが、この本が一体どんなもので あるかということも、最初我々は全く分か らなかった。最初にいくらかこれについて 知識を得たのは、今日のプリントの資料A に挙げました内藤湖南の『燕山楚水』とい う本であります。そこには善隣訳書館とい うものがあってそこには吾妻某氏。岡本監 輔という者が善隣訳書館を作っていると出 てきます。監輔は「かんすけ」でもいいよ うですが、地元の人は「けんすけJが正し いとおっしゃるので、僕は「けんすけ」と 呼ぶようにしています。 この『燕山楚水Jのこの文章というのは、 実は内藤湖南が 1899年の秋に清国を訪問 したときの旅行記であって、とりわけ役に 立つのが、各地で名士に会った、その名士 との筆談を採録してくれているD というこ とは、鈎年の何月何日に誰が何を喋ったか ということが、日まで含めて分かるわけで すね。この場合は自付を書きませんでした が、明らかにしておきますと 10月4日です。 内藤湖南が天津で、ここでは蒋国亮の名前 だけ挙げておきましたが、もう一人陳錦濡 と言う人と一緒に会っている。陳錦濡は南 京臨時政府の財政総長になるひとですから、 当時の進歩派であります。実際の話はそう いう方向で進んでいます。そこで特に関係 するのは、蒋国亮という人が中国の改革革 新のためには日本の本が大事だD 日本の経 験の総括と、日本人が西洋の新しい学問を どう取り入れたか、その本が要る。そのた めには、日本人が当時日本訳したもの、漢 訳で大事な兆民の『民約論』のようなもの もありますけども、普通は自本訳でありま すから、中国人が読むためにそれを漢訳し てほしいということを言っている。具体的 には那珂通世の『支那通史ム我々も学生の 頃には少しは読んだものであります。それ に『万国史記Jという、我々の全く知らな いもの、そういう風なものがたいへんに役 に立つ。ですから、もっと色々な日本訳さ 3 れたもの、或いは日本文の書物を、漢訳し て我々に提供してほしい、というようなこ とを中国人の方から申し出がある。それに 対して、いやもう既に吾妻某氏と岡本監輔 が、善隣訳書館というものを作って、そう いうものをちゃんと計画しておるぞという 話をしているわけですね。それで後は適当 に読んで、いただくとして、要するに版権の 問題だ何だいろんなことはあるけども、そ んなことはなんとかなる、とにかく出して ほしい。清国の側さえまともにちゃんと対 応できたら、日本側は充分それにこたえる 用意はあるんだというようなことを、この ところは示しているわけですね(~内藤湖南 全集』第2巻、 60貰)。 実際に善隣訳7芹館はできます口それを作 る原動力になるのは岡本監輔であります。 この段の終わりまで出しておいたのですが、 最後に福沢諭吉のことを 3人で議論してい るのですが、これは最後の所ですが「煩を おそれでこれを略すJとあり、 99年に内藤 湖南と清国の進歩派が福沢諭吉をどう議論 しているのか、残ってくれていたらたいへ んにおもしろいと思いますが、おそらく湖 南はあまり必要ないと思ったから略したん でしょうね。非常に残念であります。とに かく善隣訳書館というものがこんなかたち で、当時、日本の知識人と中国の文化人の 間で話題になっておる、というようなこと が分かつた。 しかし、そこまで、は分かつてもそれ以上 は全然、何がどんなものであるか分からな かったんですが、たまたま岡本監輔の関連 資料が徳島県の県立図書館に寄託されてい るということがわかりました口目録ができ ているというので その目録を送ってもら ってみたら A4版で40頁くらいの相当の目 録ですD 多くは文書ですD その中に善隣訳 書館云々というこの 5字の入った文書があ ったんです。これはおそらくそれに違いな いと思って、実はその文書が資料Dに挙げ た「株式会社善隣訳書館」、その下の「目論 見書J等の 4行は章名みたいなもんです。 善隣訳書館そのものの紹介のパンフレット です。それで、同館に行ってみたら、明らか に僕が探していた善隣訳書館であるという ことがわかりました。何でかというと、こ こで出しているものはまさに吾妻兵治の 『国家論Jでした。ということで、岡本監 というひとについて少し調べんとし叶瓦ん ということで、決して日本漢学の方から進 んで、行ったのではなく、中国近代史との関 係で関わりを持ってしまったという、その 程度の僕の勉強の仕方であります。 調べてみますと関本監輔という人は、辞 書のみならず、昔の編纂ものの伝記集みた いなものにも、例えば『続対支間関録』等 を含めて相当の伝記が残っています。です から吾妻兵治に比べると遥かに有名人であ ったということが分かります。しかし大抵 のものはみな樺太探検の功労者ということ が主であって、活字として残っているもの の中には善隣訳書館に触れてあるものはな いといってもいい。内藤湖南自身、いろい ろ交流があったようで、岡本が亡くなった 後に墓表を書いているんですが、それは漢 文で二百数十字の短いものです。その一 数十字の中には善隣訳書館について一字も 触れていません。短し1から仕方がない、と いうか圧倒的に岡本と言えば樺太探検家、 あるいはその次には教育家としてというと 4 ころであって、出版者あるいはそれを構想 したという方面は非常にウエイトの経いも のとして理解されていたと言っていいと患 います。樺太についてはもう触れませんが、 彼は樺太の北端にまで、行ったということで は日本人で最初、土地の人を除いたら世界 で最初、間宮林蔵は海峡は発見しでも北の 端まで、行かなかったそうです。マそれは余談 でありますが、樺太の手:については彼はた いへんに力を入れます。のちに樺太がどう にもならんということで千島にちょっと手 を出しますけども、これは殆どうまく行か なかったようですね。しかし樺太との関係 で千島のことは普通に触れてあります。 岡本自身はどういう人であるかというと、 幕末 1839年の生まれで¥日露戦争の始まっ た年 1904年に亡くなります。阿波徳島県の 三谷村というところの農家の生まれで、あっ て、生まれた家にも阿波学会の小林(勝美) に連れて行っていただきましたが、決 して豊かではない家です、家も部屋が 4つ ぐらいのものであってですね口もちろん彼 の履歴書には平民ということが明記しであ ります。ただし農家といっても貧農とかそ んなことではなくて、おじいさんやお父さ んは村の中では世話役的な地位にあった。 そういうおじいさんには少し才覚があって、 すこしはお金持ちにもなったようです。し かし彼が子供の頃にはもうまた貧しかった ようですが。ですから、貧しい農家に生ま れながら、イ可かやはり自分なりにこの幕末 の中で新たに身を起そうということで樺太 探検に身を投じたということができます。 実際に明治政府の初めには箱館裁判所の権 判事(ごんのはんじ)というものになるわ けですから、これは相当に位が高い。とこ ろがすぐに日本が Eシアとの関係で樺太を 拠棄しました。その結果として彼は職を失 う。その後大体うまくし、かないんですね口 あとはお手元の章庵の年譜を見ていただ いたらわかると思いますが、基本的にいろ んな学校の先生を何年かずつやっています。 東京大学予備門にも関係しますが、おそら くいちばん教育畑で力を入れたというか花 を咲かせたと思うのは、徳島中学の校長に なりました口当時としては徳島の最高学府 でありますから、そこの校長さんというの はたいへんに偉かったと思いますし、実際 にいま町さんの方から紹介していただいた 『アジアへのまなざし 岡本章庵Jという 本を作ったのは徳島の阿波学会という学会 でありまして、阿波学会というのは珍しく 自然科学。人文科学。社会科学、徳島県に あるいわゆる学会数十を連合した学会であ りまして、その 50周年に岡本章庵の顕彰運 動をやろうといって実際にやられたわけで すから、徳島県における地位はかつての徳 島中学の校長先生というような、県のトッ プとしての文化人という位置づけが今でも なされているかと思いますD ただし、いち いち触れる暇はありませんので見ていただ きたいですが、長いところでも 3年ぐらい しか教職に就いておらず、つぎ、つぎと移る。 それもつながって移るというものではあり ませんから、何かそこに居れなくなる事情、 或いは変わらなければならない事情が起こ るんだと思いますが、そこまでは僕には分 かりません。 そういう教育者としての面があって、最 後に台北、台湾に行くんですが、台湾から 帰ってきた後、善隣訳書館を構想しますD 教育者であるのとあわせてたいへんな著作 5 家であります口これはおそらく若い頃に充 分に訓練をしたため、すいすいと文章が書 けるんだと思うんですが、いろんな事をす ぐに漢文でメモしてしまうようですね。そ ういうものが図書館の中にはたくさん残っ ていますけども、刊行された本だけでも有 馬(卓也)先生というこの方面の一番よく 調べておられる方によれば、 1867年ですか ら慶応 3年の『北蝦夷新誌』に始まって晩 年まで 39種、等身の著作といっていいくら いあると思います。多くは日本国内で、日 本のものとして出されますD 北蝦夷つまり 樺太関係、のものがかなりを占めます口 しかし我々中国史の研究者として大事な のは、内藤湖南の『燕山楚水Jにも出てき ました『万国史記』というものであります。 『万国史記』とならんで、それは 1879年一 明治 12年の刊行物なんですが、もう一つ似 たようなもの、レジメの下から三分の一く らいのところにある『万国通典』というも の、これらはいずれも中国の名著の名前を 採ってきて「万国Jを附けたわけで、中国 のものというよりは世界の『史記』であり、 世界の『通典』だということを唱っている わけですが、これが岡本の著作としてこの 時期に出されている。そして中身は、当時 として言えばやはり一種の世界史であるD それも地図を附けて、当時としてなら一番 丁寧なといってもいいのではなし1かと思い ます。全部を比べたわけではなし古からあま り偉そうなことは言えませんがD しかし、これが漢文で出されたために、 日本でよりも中国@清国に持ち込まれてた いへんに受けたらしいD そのことについて は後に触れますけども、ある推測によれば 海賊版 30万部は出たであろうというんで すからたいへんな数であります。 30万とい う数字は少々オーバーで、あってもたいへん に流行したことは間違いありませんD その世界史の本の位置付けられ方、当時 の文化界における位置を示すのは、序文や 政文の撰者にどういう人があるかというと ころでありますが、『万国史記Jの方は巻頭 に何如嘩の題字があります。何如嘩は初代 の駐日公使でありますから、清国を代表す る人物に題字を書いてもらった。その題字 は一応皆さんにお見せします。カラーで撮 ったからこういう風なかたちになっていま すが、というのは『万国史記』というのは こんな表紙と封面を持っておって、『万国史 記』も『万国通典』も赤い封面なんですね。 ひょっとして四庫全書の史部の色をとった のかなというふうに思いますが、そこまで 考えておったのかどうか知りません。イ可如 環の題字は「経国之大業、不朽之盛事j で すから、常套の句ではあるものの最大級の 褒辞であるといっていいと思います。ちょ っと回します。何如障に始まり、その次に は高Ij島種庄が出てきます。後は文化人にな ります。語Ij島は文化人ではないかというと そうではない、文化人に入れてもいいんで すけど政治家としての方が大事でしょうか ら。というのは、中国で出された海賊版に は何如嘩の題字はないんですがーたくさん は見てません、僕が見たのは 3種類しかな いんですけども-あと日本人の序駿が出て くるんですが、自本で出されたものは副島 はトップですね。ところが清国で出された ものでは副島は最後に回されています。で すから向こうで言えば重野成斎をはじめ、 この手の学者の方が偉いと踏んだように見 6 えます。重野安鐸から中村正直。岡千偲 ここでは彼らの署名どおりに書きました。 括弧の中の生卒と出身地に関しては僕が補 ったもので、本文にあるわけではありませ ん口鳥尾小弥太。蜜江川田剛@筆村島田重 礼ときます。スラッシュからあとが政文で す。ですから初めの何如意から 5人が序文 であります。 中身の事は措いておいて、先に『万国通 典』の方にまいりますと、その 5年後の刊 行でありますが、そこでの序駿の撰者は湖 山小野慮。饗谷間松炭、それから東京大学 教授と肩書きまである南摩綱紀、それから 中洲学人三島毅、ここで三島が出てくるの でちょっと話になるかなと思うんですが、 あまり詳しいことは分かりません。鳥尾得 庵、これは小弥太と書いてないので、補って おきました。その次のなんと読むのか(護 美)、モリヨシなのかゴピなのか僕は全くこ の人は知らんで、調べても出てこなかった。 誰かこちらの方ならご存じだと思ってクエ スチョンマークをつけときました。後でお 教えいただきたいと思います。藤野啓。省 軒亀谷行。友人有井進斎ですが、これは子 供の頃からの、そう名乗っているのでしょ う。いずれにしてもこれら三島をはじめで すね、幕臣であるか外様であるか別として 全部詩文の人ですね ですからそういうこ とでいうと、岡本は少し低いところから出 発して、そしていろんな活動をしている。 おそらくこの序文を書いているような人々 が当時の日本の文化界の中核部分である。 そしてかれらは首都におり、いろんな意味 で高くもあれば中心的存在である。それに 対しておそらく関本は出身もそうですし、 身分的にもそうですが、そういう人からみ たら外周部分、或いは一段低いようなとこ ろで活躍しておって、その接点に序文を書 いてもらう人たちがあったんではないかと 思われます。手紙をもっと調べたら出てく るんかも分かりませんが、今の私が読むよ うなものの中では、それほど深くこれらの 人々と交流の跡をたどることは出来ません。 それで、三島中洲に関してはですね、今日 配った資料の B(20ページ図版参照)に『万 国通典Jの序、おそらくこちらの方でこう いうものは集めておられるかもわかりませ んが、 f万国通典Jの刻本の文章としてなら 皆さんに配っても意味があるではなし刊かと 患って「山田爽書Jの「序Jをあげておき ました口中身は、おそらく三島中洲くらい の人なら、『万国通典』そのものの内容を精 読しなくても、書名からでも書けるという 感じがいたしますD しかし堂々たる漢文で あるということはよく分かる、僕らにもそ うしづ風な印象が与えられます。要するに、 「史記Jを書いた岡本が今度「通考」を書 くと o それは司馬遷の『史記』をもってく るのではなくて『通鑑』をもってきますが、 要するに歴史の本と史のアンソロジー と言ったらおかしいが、百科事典のはし りみたいなもんですが一、そういう『通考』 と並べてですね、歴史の方はいろいろある けどもこちらの『通考』に類するものは一 切なかったんだから、これを力のある岡本 君がやったというのはたいへんに結構で、 これから大いに読まれるであろう、という ようなことを書いてくれていますロほかの 人のものも基本的に『史記』に対して『通 考』が持つ意味ということで序文をかいて いますから、当時の人々の思考構造からし たら、縦の歴史としての『史記』ないし『通 7 鑑』というものと、それから横の構造@仕 組みとしての『通考~ ~通典J の類と、縦横 の組合せで考える、そのなかにこれを位置 づけて書いているというふうに思います。 横に凡例をちょっと附けたのは、横は余 ってるのはもったいないと言うか、『万国通 典』も普通にある本ではありませんから、 ちょっと見ようと思うと面倒でしょうから、 せめて凡例ぐらいは載せておこうと思った だけであります。日本で出されているもの ですから、ここにもありますようにちゃん と返り点が附いています口場合によっては フリガナ振つであるところもありますが、 今ここでは省略します。一つだけ回してお きますと、『万国史記』の方の初めの部分を 出しておきました。一枚だけ持ってきまし た口当時漢文で書くときに一番図るのは、 いわゆる今我々の片仮名書きに当たる外国 の固有名詞等がたいへん因るわけで、日本 人が漢文を作る時でも全部漢字を使います から、日本の読者のためにちゃんと横に片 仮名のフリガナを振ってくれている。もち ろん中国で出された海賊版は返り点@送り 仮名。フリガナは全部削除しであります。 そういうことで、この『万国通典』の段 階で岡本章庵と三島中洲が、序を求め、あ るいは求められた序に相応ずるという関係 があるということが分かります。しかし、 おそらく社会的地位としてなら岡本は一段 低いところで、頼んで、おったと思われます。 『通典』の方に関しでもうすこし分かると いいんで、すが、こちらはそれほど流行らな かったか、われわれが見てるような資料で はすぐには出てきません。ですから『万国 史記ムよく流行った方でどんな風に書かれ ているか、いくらか書いておきました。中 国側の反応ですね。 王騒が明治 12年に日本にやってきます が、そのときに『扶桑遊記』というものを 出します白その 6月21日の序にはこの『万 国史記Jを岡本から贈られてですね、「必伝 之巨製、不朽之盛業Jであるという、何如 産の題字に近いようなことを、これもまた 最大級の豪め言葉であると言っていいと思 し1ますが、そういう風なことを書付けてい ます。それは出たときの話であって、それ から十数年の後にですね 康有為が広東で 弟子の教育のために色々な教育施設を作り ましたが、その中で読書のための手引き書 r日本書目志』を作る。そのなかでは日本 で出た本はあまり多くないのですが、その なかにはちゃんと『万国史記Jはあがって います。で、松陰の『幽囚録』、これは絶え ず康有為があげるものですから、それと合 せであるぞということを、それも「志を図 るJ(図志門)というところであげられてい るということをちょっと注記しておきまし た。梁啓超がそのあと、康有為の門下では ありますが、代貸的に自分の方でもあちこ ち出張授業を行いますが、そのための手引 き書として『読書分丹課程Jというものが 残されています、その中にも『万国史記J は入れられているし、それから横浜大同学 校一徐勤が校長になる-そこでも教材にち ゃんとこれがあがっている。ということで、 もう大同学校ともなれば出てから 20年、そ れでもまだ大いに意味があるものとされて いるD さらに後の、これは 20世紀になりま すが、 1906年に韓国の玄采という人が『万 国史記Jを書いております。これは実は岡 本のものを下敷きにして、増補版みたいな ものですが、韓国にも影響を与えていると 8 いうことが分かります。おそらく丁寧に調 べたら『万国通典Jについても若干のこと は分かると思うんですが、今の私には上の 『万国史記Jに対応するような情報は得ら れておりませんD そこで三島に話を戻しますが、三島が『万 国通典Jに序文を執筆した時にはですね、 他にも接触するチャンスがあったはずだと 思われるのは、 1884年に岡本は亜細亜協会 に入会しているんですけども、三島の方は 既に入会している C これは中村先生のここ で出された中洲の論集(戸川芳郎編『三島 中洲の学芸とその生涯~)所収の文章に出て おりますが、中洲は 1881年に亜細亜協会に 入会しているわけですから、その後身であ る亜細亜協会に章庵が入った時に、この会 を通じても顔を合わす機会があったのでは ないかと思われますけど それについては 今のところ私は知りません。 いよいよ善隣訳書館に行くわけですけど も、善隣訳書館というものができるにあた っては、その前史があります。先ず善隣訳 書館について先に話しますが、時間的にあ まり徐裕がなさそうですから、ここは興味 のある方はお読みいただけたらと思います。 このパンフレットがいつできたかという のははっきりしません。おそらくいろんな 事から推測するに 1901年の前半であろう と思います。内藤湖南は 1899年の秋にそう いう話をしているわけですね、吾妻や岡本 が善隣訳書館というものを立ち上げておる ぞという。パンフレットがつくられたのは 1901年であって、パンフレットは実は既に 立ち上がった善隣訳書館を株式会社に転身 させる、そのための宣伝用のパンフレット なんですが、では株式会社以前のことはど うであったかというわけですが、株式会社 に何でするかということは措いて、彼らは この株式会社にする前にすでに少なくとも 99年の暮れに本を4冊出しているわけです。 そこにあげましたのは『大日本維新史』と 『国家学よそれに『戦法学』。いま見つか っておるのは 3つしかないんですけども、 3 っとも奥付も皆同じ。ですから非常に計画 的にこの 3つの本が出されたことが分かり ます。いずれも明治32年の 12月5日印刷、 12月 13日発行、印刷発行とも同じ日であ ります。もう 1冊の本、 r警察新法』、それ はまだ、見つかっていませんけども、同じく 12月 5日印刷。 12月 13日発行という同形 態で出されているに違いないと患います。 その著作者は本によって違いますが、例 えば『国家学』なら吾妻兵治が著作者、発 行者は善隣訳書館、一国光社とも書かれて いますが、今大事なのは善隣訳書館なので ここでは触れません一、その代表者として 松本正純の名前が挙がっています。印刷者 は河本亀之助、これは皆同じであります。 国光社のところが変わっているものがあり ますが、それは触れません、善隣訳書館に 限定して話をいたしますo I間家学J(封面) で、日本人は誰でも知っている水戸光閣の 「閤」、これ則天文字なんですけども、何で 使ったのかわかりません。題字もみな石壊 居士(セキタイコジ)、当時の永坂周という 有名な書家。ですから非常に計画的に作っ ていることが分かります口ただーっちがう のは『戦法学』だけ巻頭に大きな題字があ るんですけども、大山巌元帥でありますD これだけは、「大日本善隣訳書館版jの方印、 普通は題字の裏に捺してるのに、この大山 § 元帥の後に押しであるから相当敬意を表し てこれを掲げたことが分かります。という のはこの f戦法学Jの著者だけは軍人で、 大尉です。善隣訳書館が出した本、この後、 清国へ宣伝のために持って行ったというの は、今ここに回す 3つの本およびここには 集められていなし'¥~警察新法』というもの でありますD ここで、やっぱり問題になって おるのは、内藤湖南の対話でも出てきた版 権法の問題でありますが、それはちゃんと 官吏を通じて禁止令を出したらことは済む んだということで、ケリがついたというこ とになっています。 一番大事なのはこの時期のことを考える 上で、中国のことだから日本の本なんかは 売れるはずなかろうという意見を持つ人が ある。しかし向こうへ行って調べてみたら、 というのはここに出てくる、「戦役(日清戦 争)の結果、彼れ大に吾国に信頼するの念 を起す」、日本の本をどんどん受け入れる準 備ができておると。精神的には中華意識な んかは払拭された、あるいは日本のものを 受け入れるということでは向こうの方が求 めている。ちょうど、蒋国亮が言っている ことと同じようなことを、一蒋国亮には会 つてないようですけども一、吾妻兵治と松 本正純というこ人の善隣訳書館の幹事が向 こうで実感してきた。ですから、これでう まくやれば大いに自分たちの事業は成功す る、大阪商船の長江航路云々というような 事例が 4つあがっていますけども、あれら が国家の援助の下に出発して、その結果今 ではちゃんと営利的にも成功するようにな ったではないか、ということを言っていま す。 実は善隣訳書館にもちゃんと国家の援助 が出ていますD それは、吾妻兵治の「行路J (宮内黙蔵『吾妻醒軒行路j)にはっきりと 「外務省の機密費 2000円j と書いてある。 ですから何も隠さねばならないと思ってい ない。それを言ったら宮崎治天なんかも機 密費ばっかしで活動しているようなもので すから。それはともかくとして、ですから 国家的な支援の下に自分たちは出発する口 だからと言って、日本の国家の大陸侵掠の 尖兵なんでいうような意識は全くない。む しろ自分たちは清国の人々の求めるものを 提供しに行く。しかもそれは国家的支援の 下にやるんだが、我々のことは必ずうまく 成功し、初め国家的に出発したものがわれ われ個々の営利という点でも成功する。そ ういうものとして我々は進むんだというこ とを言っている。 では、なんで偉そうにそう言えるかとい うと、自分たちの提供する知識というもの は向こうで要るものなんだ、日本の経験を 提供することによる隣国支援、我々の新書 ーとし九うのは今のいわゆる本のスタイルで はなくて一、新しい知識を詰め込んだ書物 ということで、清国の知識を求める人々の 見識を引き上げる、そういうことで、やって いく。日本も明治維新の時はどこのまねを しょうかということで、イギリスの真似を しようという時はイギリスの本がよく売れ た、フランスの時はフランスだというよう なことですね口いまや清国は自本をモデル にしようとしているんだから、向こうでこ ちらのものが受けるのは間違いなしだ、と いうことで彼らは考えています。 しかし実はこのパンフレットが出た後、 善隣訳書館そのものは潰れています。その 10 一番の理由は、彼らが清国へ送った本が、 どうも義和団との関係で焼けてしまったら しいんですね口また、士族の商法的なとこ ろもあったにちがいありません。僕自身は 営業的に本を作ったことはないので、原価 と定価の関係その他はよく分かりません。 しかし、ここに書かれている計算を読む限 り、これはおそらく失敗するのではなし、か と、我々でも思えそうな計算をしておりま す。計画通りいったら配当金は年 130/0出る ようですからなかなかのものですね。実際 に内藤湖南も書いているように清国側に需 要があった。このパンフレットを見ていた だし九たら分かりますが、いちばん善隣訳書 館側に頼りになる情報を与えておるのは文 廷式、当時としては超一級の文化人ですね、 しかも進歩派の。ですから、そうしづ意味 において大いに自信をもって出発した、に もかかわらず失敗したということで、その 失敗を岡本との関係、で触れておきたいと思 います。 実は善隣訳書館というものは、岡本章庵 の文書の中に少なくともそこに行き着くま でに 3つの前段階の文書が残っています。 最初は東洋開国商社というものを構想して います。それが善隣義会というものに変わ って、それから善隣協会に変わって、その 後、善隣訳書館が登場するということにな ります。全部手書きの文書があるんですが、 それはどんなものであるかということを見 ていただくために資料集(拙編『善隣協会@ 善隣訳書館関係資料-岡本章庵先生文書J 東方学資料叢刊第十冊)を回しております。 読むほどの時間はないでしょうが、こんな かたちで、残っているんだということを見て おいてくださいD そもそも東洋開国商社と いうのからして、いわゆる上のパンフレッ トに営利的ということとはっきり対応して いる。初めから単に文化事業をするという よりも、やはり苦労して学校でもえ 3年勤 めではまた失職というようなことを繰り返 した人ですから、生活の糧を出版によって 得ようと考えたに違いない。はじめの「開 国商社Jの文書はたった 1つしかありませ ん口善隣義会となるとかなりはっきりして きて、協会、訳書館と段々に出版に特化さ れます、しかも出版が訳書に特化されます。 訳書といいましたが、重野成斎の『大日本 維新史ムあれは書き下ろしです口ですから 必ずしもいわゆる我々が考える翻訳という ものではないんですけども、しかし彼らの 意識としたらあれも日本文で書かれるべき もののはずで、重野は初めから漢文で書い たと思いますが、それを漢訳として出す、 その意味での訳書であろうと思われます。 ですから販売先は初めから清国というふう に想定されている。 その中でですね、善隣義会の五規という ものがあるのですが、それに三島が登場し ます。それが資料C(2 1ページ図版参照)で あります。 Cの上の方にある、いわゆる美 濃紙にあたるもの 2枚、割に大きな字で書 いであるもの、これが岡本監輔の書いた草 稿です。ですから左の後ろの方に「監輔草」 と書いてあります。上の方と左の端の方に 少し小さい文字で書いてあるもの、これが 三島と重野の書き込みであります。この文 書のままでは分かりにくいので書き起こし たものがプリント(写真)の下にあります口 元々三島は朱筆で書いています。重野は墨 書です。折角こっちへ来るんですから差し 上げようと思って、全部カラーコピーをし 11 てきましたc これは差し上げます。 イ可でこういうものを作るのかということ、 日本の経験というものが今の清国の改革に 役立つはずである、ということは、言い換 えると、これはもう 1898年のことですから、 明治 31年、つまり一世代 30年のワンクー ル終わったところで、清国に役に立つもの として日本の経験を伝えようとしてるわけ です。その限りでは、文章をいちいちは読 みませんけども、一応文字の添削というこ とが初め志されているようですが、問時に このこと自体に対する意見を求めたのでし ょうが、重野@三島のどちらもこれが良い と、高く評価する方向での意見を書いてい ます。重野の方は事業そのものについて評 価を最後に芹いでありますが、三島の方は 真ん中辺で、思想史的に見てアジアがちゃ んとこれから立ち上がるべし、儒学を中心 に釈。老あわせて対抗するんだという自分 たちの共通の精神というようなところを、 ここに簡単に書いているんだと僕は見てい ます。いずれにしても真ん中辺よりうしろ に「老栴釈迦モ亦タ皆古ノ博大真人J云々 というのは、これは重野の文章なんですが、 「均シク亜細亜ノ精神ト為スJ0 i我ガ心ヲ 獲タリ、題ヲ加ヘザノレヲ得ズJということ で、この圏というのは朱で、ずっと振ってあ りまして、昔の人はいいところへ来ると圏 を振りましたから、ここに力が入っている ということで読んでる方が嬉しい。この場 合の「圏ヲ加へザ、ノレヲ得ズ」というのは、 三島の方がちょっと高ぶっているというと ころだと思います。 善隣訳書館そのものは岡本が構想したも のから出発しているんだが、その周辺の一 格高い知識人、重野にしろ三島にしろ、パ ックアップするというよりも自分たちも同 じ考えでおるぞというということで、共同 歩調をとっているという感じをうけるのが この善隣訳書館だと思います。善隣義会で の段階の文書は何種類も残っています、時 系列的にはあるものがその次のものへとい う風に段々書き換えられていくということ が非常にハッキリするという形で、残ってい ます。それが善隣協会というものに名前を 変えた段階で公表された、「善隣協会主旨」 というものが例の梁啓超の『清議報Jの第 2号に載っています。 どの程度岡本の作った善隣義会に関する 文書と近いものであるかというと、この対 照表から義会を協会に名前を変えたもので あると分かつていただけると思います。ま だこの段階、詩的年の初めは善隣協会と言 っていたものを、同年の秋に湖南は善隣訳 書館と言ってるわけです。ですからこの間 に訳書館に変わったのです。湖南が出発す るのが 8月ですから、当然8月以前、恐ら く 1899年の前半に岡本章庵を中心に吾妻 兵治も協力して善隣訳書館は一旦出発して いる、そうでないと内藤の話が出てきませ んから。 ところが内藤が天津で、喋っているうちに、 おそらく何か問題が起こって、 99年の 12 月には今言いました 4つの本、これは善隣 訳書館として刊行されているんですけども、 それには岡本は参加していません。という のは代表幹事の中に出てこないだけではな く、いま回したパンフレットのなかで明ら かに岡本は外の人であるという筆致で書か れていますD つまり『万国史記』を紹介す るときに岡本監輔氏の云々という注をつけ ています。もっとはっきりするのは、善隣 12 訳書館の名前で公表せられた文書というこ とになると 1900年の 4月、ですからあの4 つの本が出て彼らがその暮れに渡清します口 吾妻兵治なんかは中村先生がつくられた 『白岩龍平日記Jの 1月に本をもらって読 んだとか 4回出てきます。そんなこともあ ってですね、善隣訳書館は岡本抜きにでき て、そして吾妻たちはそのために訪華をし ている。その結果は彼らはこれでやれるん だということで、今さっき言ったパンフレ ットを 1900年の前半に出している。ところ が実際にはうまく行かなかった。 では一方、岡本の方はどうかというと、 それなりに、時期がハッキリしないのです けれども、この善隣訳書館とは別のナント カ館一館だけしか分からないのですが一、 創立構想、を持ったらしい口持ったというそ ういう文書はあるんですD ところが年月が はっきりしないので、僕は 18的年の秋のこ とであろうと踏んで、いるだけなんですが口 そこへ出てくる人は、創業者として岡本が 挙げるのは有井範平、これだけ前の序駿者 の中に出てくる友人有井範ですね。あと、 岡本は別ですが、大石。丹羽@秋永 a大野。 谷口。椿@草加。植松という人。私が調べ る限りどこにも出てこないので、徳島の友 人なのかなという程度しか今は分かりませ ん。ひょっとしたらもう少しちがうところ で繋がりがあるのかも知れませんが。 いずれにしてもこういう人を集めて本を 出すんだということを決めてるだけでなく、 実際に河本はその後、清国に行って本を出 すんです。刊行予定に、『万国通典~ ~列国 史鑑』、ーなんで『万国史記Jがないのか、 『列国史鑑Jは『万国史記』の焼き直しな のか、その辺りはわかりません一、『皇国文 芸伝~ [f国土美談』等を出すんだと言ってい ます。 岡本は吾妻とは別にですね、 1900年の暮 れに訪華して、しかもかなり長く居ります。 その問、そこにあげた少なくとも 4つの本 ([f鉄鞭~ [f西学探源~ [f孝経頒義~ [f大日本 中興先覚志~)を、どうも清国で出したよう である。上の 3つはハッキリと商務印書館 が代印しているわけですから。しかも代金 はどうして、 150部もらって誰に 50部渡し てというように、比較的詳しく分かります。 いずれも光緒27年4月、 1901年の 5月の ころ、全く同じ時に出ています。最後の『大 日本中興先覚志』だけは開導社ということ になっておって、明治 34年刊ということが 封面の所には明記しであります、しかし著 者名として「日本岡本監輔Jと書いてある んですから、少なくとも清国で売るための 本であるということがわかります。ですか ら、これらのものは結局、吾妻たちとは別 のノレートになってしまっているけども、善 隣訳書館を構想、したもののもう一つの別の 流れで、岡本は清国で実際に印刷出版を行 った。これも今見る限りではさして利益を 上げているとは見えません。実際、岡本は 晩年たいそう貧乏したということはハッキ リしている。ですから事業は成功しなかっ た。初めの『万国史記』が売れたような時 期なら良かったのかも知れません。いずれ にしても、当時の情況の下では海賊版が流 行した時代ですから筆者にお金が入ったか どうかはわからんですね。 いずれにしても、日清戦争の後には清国 の側で日本の経験に学ぶということを本気 で考えるという時代があった。それに対し て日本の側でもそれを自分たちの経験を清 13 国の発展のために提供しようとする動きが あった。しかもそれが書物を通じて、その 書物は当時の良くできる人なら簡単だ、った んでしょうが、訳であるか作であるかは別 にして、日本人の漢文による書物、そうい うものを作ることによってこちらの知識を 提供しようとしたD ですから、ここにはもう書きませんでし たが、岡本が善隣訳書館を構想していく上 で、一岡本はある意味では天皇主義者です から共和思想というものに反対なんですね 一、共和思想なんでいうのは外して、と初 めは書いています。段々それではまずいと 思ったのか、日本のあまり良くない経験と いうのは、こちらが初めからセレクトして、 と抽象的に書くようになっています。それ は誰の意見であるかわかりませんが、初め あったものが、そういう経過をたどって変 わっていくことが分かる。そういうことが 1898年、戊戊から 1900年の義和団の頃に かけて起こった。そして、その時期は実は 日本のアジア主義団体がいろいろと清国で 活躍する時期でもあった。ですから、三島 の関わりについては間本との関係を若干話 をしたに過ぎませんけども、おそらくこの 「善隣義会五規」というふうなものの添削 に関わる、それぞれの自分たちの知識をそ んなかたちで交流する、そういう知識の輪 がある中で、清国と日本の、ある意味では その後の時代からすると考えられないよう な、簡単に言えば「良い関係」の時代がか つてあったんではないか、というふうに えると思うということで、この言活を終わら せていただきます。 質疑応答 (町泉寿郎)狭間先生 どうもありがとう ございました。皆さん方、ご質問等ありま したらどうぞ、お願いいたします。 (久保田文次)たいへんおもしろい発表を ありがとうございました。私も昔、軍国主 義少年でしたから、探検家としての樺太千 島先覚者として御尊敬申し上げていたんで、 すが、こうしづ教育活動は先生からいただ いた本から分かつたんですが、中身の儒学 等についてはよく分かりませんでした。本 当に根が深いということがわかりまして、 また当時の日本人の漢文が中国に行って通
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